序章 はじめに




 池井優『藤山一郎とその時代』(1997年)は、昭和戦前期にデビューして以降、日本の流行歌界を代表する歌手であった藤山一郎の評伝である。 この本の 中に、以下のような記述が出てくる。長くなるが引用しよう。
 当時、東京で極めて小さな局であった東京12チャンネル(現テレビ東京)が、昭和四〇年「歌謡百年」と題する番組を企 画した。 歌でつづる年代記であったが、単に歌のみならずその時期の社会現象をフィルムで紹介しながら、中に歌をおりこんでいくという番組である。いわゆる懐メロ番 組 のハシリであった。できるだけオリジナルでやろうと担当者は考え、声が出なくても昔の歌手が当時の歌を歌うことに意味を持たせた。歌 手の最 長老は東海林太 郎、だがまだ六〇歳後半で、藤山などは五〇歳代後半にようやく入ったところだった。藤山は別格として、ほとんどの歌手が引退同然で、中にはキャバレーをま わって細々と歌っている人もいる。こうした人々を改めて引き出して、テレビで歌ってもらおうという企画である。
 藤山に交渉すると、NHKの了解を求めてほしいとのたっての要請だった。12チャンネルの担当者は「これは単なる歌番組ではなく、社会現象 を併せて 紹介する番組であること」を強調し、実際藤山が出た場面では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」がヒットした昭和六年に焦点を合わせ、満州事 変、東北・北海 道の冷害と凶作、清水トンネルの開通などを紹介していった。一三回連続だったが、12チャンネルにしては視聴率が良く、いっそ歌番組にしよう と「なつかし の歌声」の企画実現となった。
 昭和四三年一二月三一日、12チャンネルのこの番組は「昔の紅白」を目指し、NHKの紅白歌合戦にぶつけて、同じ時間帯で共立講堂から生放 送を行っ た。藤山も紅白とのかけもちで出演、他局の裏番組に較べて善戦健闘し、視聴率は一一パーセントを記録した。
 藤山はやがて、NHKと時間契約の準専属にきりかえ、ラジオ関東(現ラジオ日本)の「あの歌この人」、NET(現テレビ朝日)の「スターカ レン ダー」、日本テレビ「帰ってきた歌謡曲」などに出演することになる。
 「なつかしの歌声」は、やがて東京12チャンネルの看板となり、大晦日の「年忘れなつかしの歌声」、終戦記念日に放映する「夏祭りなつかし の歌声」 が特に目玉となるにいたった。
 まさに12チャンネルの番組が懐メロブームに火をつけたといってい い。この恩恵を うけたのが半ば引退同然だったオールド歌手達だった。テレビ番組の 出演、地方公演の依頼が相次ぎ、出演料は一〇倍にはねあがったという。
 「12チャンネルであの番組を企画した三枝孝栄プロデューサーの方へは、足を向けて寝られませんね」と、復活したオールド歌手がしみじみい うほどだっ た。 また、この番組の司会コロムビア・トップ・ライトが「あの方はもう亡くなっていますかねえ」といったのに対し、「おーまだ生きてますよ」と名 乗り出た小野 巡(めぐる)のような例もある。
 「九段の母」の熱唱で一世を風靡した塩まさるは、これを機会に復活を果たし、八〇歳を過ぎた今日でも歌いつづけている。また声が出なくなっ て歌うことを や めていた高峰三枝子に「大丈夫だから歌ってごらんなさいよ」と藤山が説得し、三枝プロデューサーが無理にひっぱり出した結果、歌手として復活 した例もあっ た。
 12チャンネルの成功に刺激され、NHKも昭和四四年から「思い出のメロディー」をスタートさせた。藤山はNHKの準専属とあって出演した が、「なつか し の歌声」で復活したオールド歌手の中には、12チャンネルに義理を感じ、NHKへの出演を遠慮する人もいた。
藤山は毎年、NHKの紅白歌合戦に出場し、歌わなくなってからも、最後の「蛍の光」の指揮棒を振るのが恒例であったが、几帳面な彼は「年忘れ なつかしの歌 声」の会場からNHKホールまでの時間を綿密に計算し分きざみのスケジュールをこなしていった。
 こうして藤山はNHKの「歌のおじさん」に加え、往年のヒット曲を歌 う懐メロ歌手 としても再び脚光を浴びることになる。〔池井(1997:pp.204- 206)、太字は引用者による〕

 以上、池井(1997)によると、東京12チャンネルという、当時のローカルテレビ局が「懐メロ番組」を企画した結果、「懐メロブーム」なるも のに火が つき、「引退同然だったオールド歌手達」に思わぬ恩恵を預けたとのことである。
 今日では、レコード店やレンタルビデオ店などに行くと、必ずと言っていいほど「懐メロコーナー」があり、主に演歌歌手のカセットテープやCDが 陣列され ている。また、日常会話や雑誌の記事などでは、以下のように、「なつメロ」という言葉が日常用語として使われている。
 寝つかれぬままにイヤホンをあて、ナツメロや人生譚に聴きいる深夜放送の向こうに、高齢者の「やさしさを求める心」 「さみしさ をいやしたい欲求」を忘 れたシルバー・ビジネスの現実が見える(「<20万人の老親たちが愛する“やさしい時間”>NHK『ラジオ深夜便』聴いたことありますか」, 『NEXT』 平成3(1991)年8月号,p.212)
 かつて懐メロといえば、もっぱら演歌を指すものだったが、いわゆる“中年”を構成する世代が交替するにしたがい、懐か しい音楽 のタイプも大きく変化 してきた。
 六〇年代のグループサウンズ、あるいはエレキブームの時代に青春をすごしたのは、今四十代後半の、いわゆる団塊の世代を中心にした世代であ る。(中 略)
 一方、四十代前半では、七〇年代の和製ポップスが、懐メロとして圧倒的な人気だ。(「音楽CD 90年代ビジネスマンの懐メロ 『青春ポップス』が大人気」,『財界』平成10(1998)年9月20日臨時増刊号,p.46)
 「懐メロ取り放題」では、50年代から90年代までの懐かしい名曲の着信メロディを取り揃えたサイトです。特集や様々 なランキ ングなど、コーナーも豊 富。このサイトで名曲に触れて青春を思い出してください。        (http://www.hudson.co.jp/mobile/imode/100/natsu.html、ハドソンの携帯電話着信メロ ディのウェブ サイトより)

 このように、「なつメロ」の対象となる歌は、戦前のものからつい数年前に流行ったJ-POPまで、また、自分にとって「なつメロ」という存在の 歌がある 層は、若者からお年寄りまでさまざまであることが分かる。それでは、現在は日常用語として使われている「なつメロ」という語及び音楽カテゴリーは いつどの ように誕生したのであろうか。また、池井(1997)が言及している昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームは、どのような ブームで あったのであり、また、これによってどのような影響を当時及び後世の社会に伝えたのであろうか。これらの問いに答えていくことを本論文でのテーマ とする。
 ところで、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームに関して言及している先行研究は少なく、差し当たりは以下の2つしかな い。
●ポピュラー音楽の分化・多様化
 ポピュラー音楽は、人々の価値観の多様化に対応して、分化した。もはや全国民的な幅広い支持を受ける流行歌は成りたたなくなった。
 一九六五年秋にTBS系列で始まった『歌謡曲ベストテン』以後、各局で同種の番組が始まり、テレビを中心にしたヒット曲作りが本格化した。 若手歌手を中 心 にした同種の番組が毎日のように流されるため、一曲 の流行周期は短期化 し、ファン層 は低年齢化していった。
 この内容と流行周期に追いついていけない中高年齢層がすがりついたの が、「なつか しのメロディー」と演歌である。「なつメロ」・演歌の文化は、ラジオ、レ コード、そして当時急速に普及しつつあった有線放送を主要なメディアとしていた。テレビにも「なつメロ」番組ができたが、それはあくまでも副 次的なもの だった。(小川〔1989:p.37〕、太字は引用者による)
 (昭和30年代のリバイバル・ブームの中での軍歌もののリバイバルに対して)一方、一般のリバイバルものでは、若い歌 い手が古 い歌を歌うだけでは満 足できないようになって、テレビの“ナツメロ”番組をきっかけとして東海林太郎・藤山一郎・淡谷のり子・二葉あき子・勝太郎・市丸・赤坂小梅 といった具合 に往年のスターたちがひっぱり出されることになっていった。〔古茂田他(1995:p.14)、括弧内は引用者による〕

 以上の先行研究にしてもごく簡単にしか触れられていない。また、小川(1989)では、テレビの影響力は「あくまでも副次的なものだった」とし ているの に 対し、古茂田他(1995)では、「テレビの“ナツメロ”番組をきっかけとして」としているので、一見すると意見が対立しているようにも感じ取れ る。
 「なつメロ」ブームは“ブーム”と名がついている通り、一種の流行現象である。流行現象の研究に関しては、社会心理学の分野からの蓄積がある が、多くの 研 究者が指摘しているように、今日の社会では、ブームや流行に対して、マスメディアが強い影響力を与えている。(1)また、「なつメロ」ブームは一種のノス タルジア現象でもあるが、Davis(1979=1990)によると、現代のノスタルジアはマスメディアからの強い影響を受けている。実際、戦後 日本にお ける「なつメロ」カテゴリーの形成、そして昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームの勃興にしても、マスメディアの影響力無く しては成 り立たなかった。昭和20年代〜30年代(1945〜1964年)にかけて、「なつメロ」カテゴリーが形成する際には、小川(1989)が述べて いるよう に、ラジオ、レコード、有線放送が、昭和40年代(1965〜1974年)に「なつメロ」ブームが起こった際には、当時一般家庭への普及がほとん ど終わっ たテレビが主要なメディアとなったと論者は考えている。
 一方で、いくらメディアが「なつメロ」カテゴリーの形成や「なつメロ」ブームの勃興に対しての仕掛け役であったとしても、それを支持する層が存 在し得な け れば成り立たない。果たしてどのような層が、特に昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームを支持し、どのように「なつメロ」を 捉えて いったのであろうか。
 戦後日本の高度経済成長下にあって、メディアの日々の発達の中で、当時の人々がそれらとどのように付き合いながら、価値観の多様化を図っていっ たのか。 「なつメロ」の成立と「なつメロ」ブームの勃興を考察していく中で、本研究は、広い意味ではこういった問いを考えていく上での示唆になると考えて いる。


トップへ
第1章へ