昨今の歌謡界で目立つ一つの傾向として、“なつメロ”ブームがあげられる。(中略)
俗に“十年ひと昔”といわれているように、“なつメロ”を一応、現時点からさかのぼって十年以前の歌に限定し、<なつかしのメロディ―>の放送十年の間 の歌の流れ、社会情勢の動きにスポットを当ててみよう――。
<なつかしのメロディ―>の始まった二十四年には、社会的には国鉄の大量首切りが行なわれ、「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相ついで起こり、 (中略)この年に流行したのが藤山一郎の「青い山脈」「長崎の鐘」、高峰秀子の「銀座カンカン娘」など。(中略)
翌三十年から三十一年にかけては、いわゆる神武景気。若者たちの間には“マンボ”が流行、“慎太郎刈り”の“太陽族”が“マンボ”にうつつを抜かす一 方、砂川をはじめ全国の基地には反対闘争が盛り上がった。(中略)
三十五年は安保騒動の年。警官隊と乱闘を繰り返す全学連の勇名が世界にとどろく中で、「有難やぶし」が歌われた。同じ年、橋幸夫が「潮来笠」でデビュー した。(後略)(丸山鐵雄「“なつメロ”10年歌の流れ」,『グラフNHK』昭和45(1970)年8月1日号)
ことしの<思い出のメロディー>は年代を昭和二十年から四十年と、戦後二十年の思い出の歌をつづる。この間のおもなヒット曲を 拾いながら、当時の世相のうつり変わりをみてみよう――
昭和20年(一九四五年)
☆「お山の杉の子」「リンゴの唄」
★戦争がいよいよ激化し、妊婦と幼児の集団疎開が行なわれ、タバコの配給が一日五本から三本に。八月六日広島に、九日長崎に原爆投下される。同月十五日終 戦。天気予報の放送三年半ぶりに復活。宝くじが売り出された。
昭和21年
☆「三日月娘」「悲しき竹笛」「啼くな小鳩よ」
★たけのこ生活の中で新円交換が実施され、その一方でヤミ成金が続出、かつぎ屋も出現した。婦人警官誕生。
昭和22年
☆「異国の丘」「港が見える丘」「雨のオランダ坂」「夜ふけの街」「夜霧のブルース」「さらば赤城よ」「山小屋の灯」「夜のプラットホーム」
★インフレが続いた。このころから新興宗教が続出。赤い羽根運動がはじまった。六・三制の新学制発足。(以下後略)(「歌謡風俗年表」,『グラフNHK』 昭和46(1971)年8月1日号,p.8)
昭和四年(一九二九年)
▽モボとモガの銀ブラ△
モダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)が流行の洋服で、銀座や大阪の心斎橋筋を歩いた。
“銀ブラ”という言葉ができたのはこのころ、そしてこの風俗を歌ったのが、東京行進曲で、そのレコードの裏面が「紅屋の娘」だった。
「洒落男」も“銀ブラ”にあこがれた田舎のモボが、イッパイ食う歌だ。
昭和六年(一九三一年)
▽藤山一郎がデビュー△
古賀政男が作曲家として注目をあびた。「酒は涙か溜息か」を歌った無名の新人、藤山一郎は、当時東京音楽学校の生徒だったが、この一曲で流行歌のスター になった。
昭和七年(一九三二年)
▽“満州事変”の拡大△
オペラ歌手として有名な藤原義江は、それまで「波浮の港」や「出船」で、独特の“藤原節”を、きかせていたが“満州事変”の開戦とともに感激、自ら「討 匪行」を作曲した。また「肉弾三勇士の歌」は、毎日新聞が三勇士をたたえるために募集したのに応募し、一等になった与謝野寛の作詞である。その妻・与謝野 晶子が「君、死にたもうことなかれ」と歌っているのと対照的。(以下後略)(「第4部 生きていた想い出の歌謡曲 歌は世につれ世は歌につれ ◆ヒット曲 とエピソードで綴る昭和風俗史◆」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,pp.50-54)
流行歌の歴史にくわしい音楽評論家丸山鉄雄(NHK・テレビ局)は、「人気の王座を新人に奪われたベテランのあり方は次にあげ る三つしかない」として
@ヒット曲の持札で生きのびる場合。いわゆる「ナツメロ歌手」(なつかしのメロディ―の略)で最もハバのあるのは東海林と小畑ぐらいのものだろう。 (「人気に背かれた三歌手――忘れかねた全盛時代――」,『週刊東京』昭和32(1957)年6月1日号,p.61)
「思い出」という仮題で提案されたこの新しい音楽番組をはじめるにあたって、担当者に指示されたことは、一言でいえば「なつかし のメロディ―」と別の形式によること、即ち曲目、作曲者、歌手中心でなく、事件事象中心に構成すべきこと、もう一つ、この番組はレコードによるべきことな どであった。
関係者の間で案を練った結果、題名は「思い出によせて」、形式は録音やコント等を含んだ立体的ディスコ・ジョッキーとし、とりあえず流行歌レコードの出 はじめた昭和初期から時代を追って世相を概観し、これが一応終ったところで、また別の趣向を考えようということになった。同時にこの間の副題として「昭和 のプロフィール」あるいは「昭和の横顔」と呼ぶこととした。〔花輪(1953:p.46)〕
「思い出によせて」の演出にあたって、まず第一に重点としたところは、これに類似の番組、「なつかしのメロディ」、「黄金のい す」に似た形式に陥らず に、このプロの意図をいかにして生かすかという点であった。
「なつかしのメロディ」はメロディを中心として聴取者に懐かしい感じを与えるのを目的としているし、「黄金のいす」は出演者を中心として、出演者個人の 昔の思い出を取扱っている。
これに対し新番組としての「思い出によせて」は、あくまでも昔の出来事、大きな社会的事件、その当時の世相というものに重点をおいて、これを昔のレコー ド或は保存された録音、また当時の生き残り人物の登場等によって往時の思い出を聴取者の前に浮彫にするのが第一の眼目であった。〔丸山(1953: p.47)〕
『歌は結ぶ』はヒューマン・インタレストの番組である。そこには何のフィクションも演技もない。巧妙な表現も演出もない。あるも のはただ人生の真実だけである。
人間の生活に音楽が占める部分は大きい。音楽は或る場合には生きて行く支えにすらなる。……私たちが何か思い出を振り返ってみる時、そのよすがとして音 楽を持っていることが多い。そしてその曲を聞くたびに、思い出はいきいきとして蘇って来る。
昭和三十一年の夏だった。テレビが一応の軌道にのり、“ラジオ的な番組”ということが真剣に考えられていた。テレビでも映画でも、舞台でも表現出来ない もの。ラジオの機能を最高度に発揮出来る題材。私たちはそんな材料を求めて狂奔していた。(中略)一つの歌に思い出を持つ聴取者を二人以上呼び、その歌の 思い出を語って貰い、その歌によって初めて会ったお二人が結ばれるといったものである。(中略)歌手は荒井恵子さんをレギュラーとして起用しよう。彼女な らどんな歌でも美しい表現で歌ってくれる……。(中略)地方在住の方のお話を録音するために現地に赴きもした。今後も各地に足をのばすプランをたててい る。ゲストとしては鳩山元総理を始め、各界の皆さんの御出席を得、ゲスト御自身の歌も放送した。現在ではシャンブル・ノネットの演奏で、荒井さんを始め、 東唱の久富吉晴氏他出演を得、ゲストの出席は隔週にお願いしている。〔山本(1958:p.58)〕
37年度は、地方局との共同制作により、月1回ひとつの土地にちなむ歌をその土地の出身者(仙台・小杉勇、大阪・杉道助、北陸・ 水上勉ほか)をゲストに迎えてつづる趣向を試みた。また8月、島崎藤村の命日には馬籠で故人の長男楠雄の追悼談を収録し、その音楽作品をあつめ、10月に は北原白秋の殉後20年にあたり、その作品集を試みた(追悼の詩、作詞と朗読・西条八十)。/その他の主な出演者とテーマ:谷内六郎「雨」、井上靖 「山」、岡田喜秋「旅愁」、北杜夫「海」、鳩山薫「七五三」、サトウ・ハチロー「六大学野球」、池田弥三郎「東京」。(『NHK年鑑』昭和38 (1963)年版,p.148)
大正から昭和23年まで年代を追って構成、季節にちなんだ選曲を行なった。月1回は東海林太郎、淡谷のり子、伊藤久男、渡辺はま 子ほか現在も活躍中のベテラン歌手のワンマンショーとした。また、毎回ゲストを迎え、放送曲目にまつわるエピソードや思い出を語ってもらった。(『NHK 年鑑』昭和39(1964)年版,p.159)
例えばリバイバル・ブーム。聖書には「古い酒を新らしい革袋にいれるものあらんや」などと書いてあるんでしょうが、それがウケて いるんですよ。若い歌手のモダンなリズムによるリバイバル・ソングがね。同じリバイバル派でも、少し気が抜けかかっていたとて、古い袋に入った古い酒の一 掬を楽しむ情緒派あり、古い酒と袋の移り香をとったり真似たりしてこれから作る新酒をヒットさせようと試みる合理派がいたり……え、なんですって!「『思 い出のアルバム』は無定見流行便乗派だろう」……冗談じゃありません、こちらは『懐しのメロディ』、「ナツメロ」と呼び親しまれてきた老舗からと伝統を重 んじる商法、秘伝の「料理材料帳」を引きつぎ、立体的近代的なかつ基礎のしっかりした鉄筋ビルを造ってから営業を始めたんですからね。
だからうわついたリバイバル・ブームはうちにとっちゃ有難迷惑みたいなもんで、うちのリバイバルが本当のリバイバル……と言うと少々ややっこしいです が、古い酒の味を、その入っている古い袋や、その作られた当時の酒蔵のことその年の季節の変動まで考えながら味わってもらう、さらに現在の酒蔵、酒袋、酒 の味とくらべて味わって貰う。また、その道で「通」と認められているお客をいつも店へ招待してホーム・バーの常連に話しかけていただく……音楽の美酒は古 きがゆえのみには尊とからず、古酒には古酒の飲み方、古酒と新酒のなじませ方があるはず(後略)〔禅野(1961:p.53)〕
歌手、作詩、作曲家、ボードビリアンなど、一家をなした人の半生には、並々ならぬ努力と豊かな天才の鮮やかな足跡が残っている。その足跡をたどりながら、 その人の個性を描き、黄金の色燦然たる30分たらしめようというのがこの番組の意図である。(『NHK年鑑』昭和34(1959)年版,p.176)
昭和31年11月に第1回をはじめたこの番組も通算156回、昭和35年3月で終ることになった。(中略)この間、聴視率も終始10〜25%でおおむね好 評に終始した。
昭和34年度主なことは、今まで以上に軽音楽以外の世界の人を取り上げたこと、常盤津文字兵衛、竹本綱太夫、小牧正英、藤間勘十郎、清元寿兵衛、春日と よ、福田蘭童、喜多六平太さんなどがそれであり、また、最近に至って脚光を浴びた新進、たとえば、フランク永井、マヒナスターズ、五十嵐喜芳、今井久仁恵 さん等を取り上げたことであった。(『NHK年鑑』昭和36(1961)年版,p.232)
音楽界の第一人者をとりあげるドキュメンタルなバラエティー。とりあげた人物は、主として歌謡曲、ポピュラーの歌手、作詩・作 曲家で、この2年間に第二線級はほとんどすべて放送した。3月3日から最終日までの5回は、とくに「昭和の歌謡史を飾る人びと」として編年史的に歌謡界の 人物をとりあげた。(中略)おもな出演者:古賀政男、中村八大、東海林太郎、藤山一郎、ディック・ミネ。(『NHK年鑑』昭和41(1966)年版, p.142)
取り上げるテーマは、過去、人々にひろく愛されてきた歌が、今もなお人々の心の中に生きつづけている姿を描こうとするものであ る。石井鐘三郎アナウンサーを司会として、ゲストに異色ある人たちを迎え、或る時は感動的に、或る時は楽しく、或る時はほほえましく、その話の展開にした がって思い出の歌をきく、というフォーマットにしている。取り上げたうたも、単なるなつかしのメロディ―にとどまらないで、広い唱歌、学生歌、民謡、クラ シックのリード、ダンスミュージックなどに至るまで、バラエティの多いことを、心がけてきた。35年度とくに好評を博したものは、第1回の「長崎の鐘」を はじめとして、「東京のうた」、「道頓堀行進曲」、「赤とんぼ」、「晩秋の潮来」、「酒は涙かためいきか」、「思い出の高校寮歌集」などであった(後略) (『NHK年鑑』昭和37(1962)年版,p.227)
飲んで騒ぐときは陽気な歌をうたい、アベックで散歩すれば楽しいメロディを口ずさみ、悲しみの夜はすすりなく旋律に心を慰さめ る。われわれの人生にとって、歌というものはなくてはならぬもののようです。
その歌は、あるいは大詩人、大作曲家が心魂を傾けて生み出したものであり、あるいはレコード会社の商魂が時流に合わせて作り出したものかもしれません。
しかし、いずれにしても、歌はこの世に生み出されてから、その生みの親をはなれて、独り立ちする。そして、その歌をうたう一人一人の心に、生き始める。 何年も何十年もたって、いまなお私たちの心に生きつづけている歌のいのち、そのいのちを汲んで、人と歌とを結びつけることは出来ないものだろうか。そし て、そこに生まれるあたたかいヒューマニズムを画面ににじませて、テレビの視聴者もそれぞれの思い出をなつかしむ。……そんな番組を作りたい。
今年四月、『歌は生きている』は、こうして発足したのでした。(中略)構成・演出の根本は常に一貫しています。それは「見ている人、聞いている人が、そ れぞれの思い出にひたり、テレビを媒体として、各自の感懐をあたためて頂きたい」ということです。(中略)
テレビは、いまやジャーナリズムの中心となりました。それは、どこの家庭にも入りこんでいき、見ている一人一人に何かをうったえます。
私たち担当者は、仇やおろそかに番組を出してはならないと思っています。ただ面白かった、楽しかったと思わせる番組もあっていいし、ああためになったと 思わせるものもあっていいと思います。『歌は生きている』は、見終わって「ああよかった!」と言わせたい……そんな心のほのぼのとあたたまるようなものを 毎回出して行きたいと考えています。
歌は、人の心の中にだけ「生きている」のですから……。〔川口(1960:p.71)〕
この番組はスタジオから飛び出して、テレビカメラで全国各地の農村、山村、漁村、都会の職場、家庭を訪れて、歌う喜び、生活の潤 滑油としての歌を求めて歩き回った。なかでも「はるかなる南の海よ」で、歌によって生をかち得た旧軍人の話には、全国からの反響が大きく、歌がもつ使命を 新たに認識させられた。(『NHK年鑑』昭和39(1964)年版,p.160)
世相を反映する歌謡曲の歴史をふり返って作詞者を中心に、当時のヒット曲にまつわるエピソードや、社会の風潮などをききながらゲ ストの歌をおくる新番組。第一回は高橋掬太郎氏で、年代の新しいものから組んで「古城」「女ごころ」「おんな白虎隊」「酒は涙かため息か」「片瀬波」など 十七曲。(『朝日新聞』昭和35年11月2日朝刊,p.5)
リズムは現代調で「およばぬこととあきらめました……」多分にウエットなことばではじまるこの歌(「雨に咲く花」)は、高橋掬太郎作詞、池田不二男作曲で淡谷のり子がう たった昭和十四年ごろの流行歌。それをリバイバルさせるとき、井上ひろしという男性 ハイティーン歌手にうたわせ、リズムをロックバラード調に新装したところがミソである。詞やメロディは、昔のままでも、リズムだけは、現代調でなければな らぬ、これがリバイバルの第一条件だ。『有難や節』の作詞で、自身もリバイバル・ブームにのっている浜口庫之助氏(作詞作曲家)は、
「詞というのは、たとえていえば東海道のようなもので、これは古今将来変わらない。だがそこを通るノリモノは時代が進むにつれて急速に変わる。カゴから汽 車へ、夢の超特急へ……というぐあいに。昔の『雨に咲く花』のリズムはノロノロしたカゴだった。いまの時代にはマッチしない。マッチさせるためには、カゴ を“こだま”に変えなくてはね、ロッカバラード調はさしづめ“こだま”というところですかね」と説明する。
ロッカバラード調“カゴ”から“こだま”へ乗りかえたいわゆるリバイバル歌は、コロムビアだけでも『小雨の丘』(昨年十二月)『別れの磯千鳥』(二月)『巷の雨』(二月) 『胸の振子』(二月)『サムライ日本』(三月)、近く『湖畔の宿』『別れのブルース』などが、発売になる。
『湖畔の宿』は映画の主題歌、高峰三枝子の歌だが、こんどハイティーン女性歌手森サカエがロッカバラード調で吹きこんだのを高峰がきいて、「私のより、い いわね」と折り紙をつけてくれたそうだ。
『別れのブルース』は淡谷のり子の傑作だ。それを神戸一郎がぜひにと申し入れて、リバイバルが実現した。コロムビア邦楽部長の吉田雄二郎氏は、
「ウチには、かつてヒットした流行歌の財産がクラにいっぱいあるんですよ。それを眠らせておくテはないですからね。昔なつかしい歌を、中年以上の人は、思い出にふけってきけるし、新しい編曲で若い層をつかめ る。商売としては、こんな合理的商法はありませんなア」と、リバイバルさまさまである。(「親爺も知ってる息子の歌――リバイバル・ソング 流行の秘密――」,『サンデー毎日』昭和36(1961)年3月19日号,p.14、通常フォント文字の太線、2〜3行目の括弧内は引用者による)
昔の流行歌をもう一度取りあげて、新らしい装いをこらして提供するだけのことを、リバイバルというカナ文字で色づけすると、急 に何か魅力的にきこえるから不思議なものである。
NHKでは、すでに『歌は生きている』というテレビ番組で、リバイバルを正面から とりあげて、大いに成績をあげているが――「歌は生きている」という言葉の中にリバイバル・ソングの秘密があるのだ。(中略)
下駄ばき住宅が増え、洋装が普通のこととなった現代でも、日本人はすぐドテラを着たくなり、アグラをかきたくなるのである。千年にわたる日本人の生活の 伝統はそう簡単に変わるものではない――。
コンクリートのアパートに住んでいてもドテラを着て、アグラをかいている人たちにピッタリくる歌、――これが今日のリバイバル・ソングではなかろうか ――。
といっても、大正時代、昭和の初期の感覚のままで、昔の歌をとりあげてみても、人 気を集めることは無理である。新らしい装いをこらして、新らしい感覚でこれを再生しなければ今日に歌は生きてこない。
こうして、「君恋し」や「東京パラダイス」がはなやかに登場したのである。そしてこれは企画した人が腹づもりしたよりも何倍かのスケールで延びていって いるのだ。
この成功の裏には、昔のメロディーが、年配層の支持を得たことも、忘れてはならな い。
ジャズ調、ロッカビリー調で、「いまどきの若いものの音楽は頭にくる」とこぼしていたおじさんたちが、はじめて和やかな気分で歌を思いだすことができた のである。自分の世界へ再び帰ってきたような安らかな思いで、歌をきく気になったのである。現代の歌手たちの歌い方は、おじさんたちの若き日の感覚とは大 いに違うのだけれど何か否定できないものが、リバイバル・ソングの中にあると思うのである。戦後荒れに荒れて、方向を失った日本人の生活意識がこんなとこ ろでまた、元へ戻っていくのではないか――。
装いを新らたにした、昔の歌をききながら、日本の年配層の人たちが、「やっぱり昔はよかった」と回想できるだけでも、世の中は落ち着いてきたのだという ことが出来るかもしれない。(〔服部(1962:p.33)〕、太線部は引用者による)
例えばリバイバル・ブーム。聖書には「古い酒を新らしい革袋にいれるものあらんや」などと書いてあるんでしょうが、それがウケて いるんですよ。若い歌手のモダンなリズムによるリバイバル・ソングがね。同じリバイバル派でも、少し気が抜けかかっていたとて、古い袋に入った古い酒の一 掬を楽しむ情緒派あり、古い酒と袋の移り香をとったり真似たりしてこれから作る新酒をヒットさせようと試みる合理派がいたり……え、なんですって!「『思 い出のアルバム』は無定見流行便乗派だろう」……冗談じゃありません、こちらは『懐 しのメロディ』、「ナツメロ」と呼び親しまれてきた老舗からと伝統を重んじる商法、秘伝の「料理材料帳」を引きつぎ、立体的近代的なかつ基礎のしっかりし た鉄筋ビルを造ってから営業を始めたんですからね。
だからうわついたリバイバル・ブームはうちにとっちゃ有難迷惑みたいなもん で、うちのリバイバルが本当のリバイバル……と言うと少々ややっこしいですが、古い酒の味を、その入っている古い袋や、その作られた当時の 酒蔵のことその年の季節の変動まで考えながら味わってもらう、さらに現在の酒蔵、酒袋、酒の味とくらべて味わって貰う。また、その道で「通」と認められて いるお客をいつも店へ招待してホーム・バーの常連に話しかけていただく……音楽の美酒は古きがゆえのみには尊とからず、古酒には古酒の飲み方、古酒と新酒 のなじませ方があるはず(後略)(〔禅野(1961:p.53)〕、太線部は引用者による)
17日「なつかしのメロディ」の軍歌は、大分不評を蒙った。楽しい土曜日をぶち壊すものだとの投書はよいとしても、あの軍歌に あふられて、いまだに病床に呻吟しているという療養所患者一同の声には、胸打たれぬ者はないだろう。(『NHK年鑑』昭和30(1955)年版, p.317)
LP三十センチの歌謡曲レコードは七十一枚発売されている。このうち、いわゆるナツメロが三十五枚で、ナツメロのうちには軍歌、軍国歌謡の特集盤が七枚あ る。〔加太(1971:p.15)〕
歌謡曲という名称は、昭和の戦争中の文化統制によって命名されたもので、それまでは、流行歌、映画主題歌、小唄などとレコード 会社が適当に分類していた。戦時下の国民は軽佻浮薄な流行歌=はやり唄など、うたってはならぬというわけで、ドイツのリードのような歌に対して使われてい た歌曲という言葉をまねて、古くから使われていた歌謡という文字を使って歌謡曲としたのである。実は、歌謡曲というと実体がはっきりしないので、辞書のよ うにその種の歌を次のように定義づけておく。歌謡曲とは、レコード会社製のレコードに録音されたドレミファ音階による小唄である。ときには叙事詩の形式に よる歌詞もあるが、主として叙情詩が歌詞に使われる。その発祥は昭和三年に、レコードが日本において旧録音から、電気録音になったときで、以後、日本の流 行歌の源泉は、演歌師や簡易楽器等からレコードに移った。〔加太(1977:p.32)〕
もはや、その影さえもみられなくなった若者のアイドル――グループサウンズは、その後の若者たちに、どんな足跡を残したのだろ うか。
あの狂気にも似たローティーンたちの熱狂は、大人たちにとっては、とうてい理解の 範囲を越えていた。
しかし、彼らにとって、昭和四十三年前後の一時期は、まさに、エネルギーが爆発した青春のひとコマであったことは事実だ。
それが、失神、事故などの騒ぎで、社会的に、かなり大きな非難をあびせかけられたことがあったにしても、彼らは、さほど気にもとめない大胆さをもってい た。
その大胆さが、大人たちの胸にグサリと突きささり、大人たちは、もはやどうにもならない気違いざたとして受け取り諦めとニガニガしさで、いつのまにか口 をつぐんだ。
たしか、そのころからであったろう。親子の間、あるいは、社会的なひろがりの間 に、しきりと「断絶」ということばが流行した。〔本田(1971:p.22)、太字は引用者による〕
視聴率からみた12チャンネルの実績が、惨澹の一語につきることは前に述べたが、開局第一日目の最高の視聴率は五・二%、しか もその番組が「未来を歌おう」で、最低の〇%が「日本の科学時代」だったことは、きわめて皮肉な現象であり、不吉な前兆だったといってよい。しかも翌日初 放送の「樅の木は残った」が民法きっての豪華番組の前宣伝にもかかわらず、視聴率は六・一%、局側の期待はむざんに裏切られた。
五月十八日から二十四日までのベストテン(第一位「宇宙家族」四・四%)の視聴率を総計しても、同じ期間のTBSの第一位「隠密剣士」の三三・〇%に達 しなかったといわれている。他の民放では二〇%をこえねばベストテンにはいれぬし、ゴールデンアワーで一五%を割れば重役会議で問題となり、一〇%以下で はプロデューサーの首は飛び、もちろんそれまでには、スポンサーはおりてしまうとまでいわれている。こうした業界の常識からいえば、12チャンネルの場合 は、視聴率以前、つまりスポンサーにとっては“不毛の荒野”というほかはなかった。(中略)
よしない道草を食ったが、本題にもどると、それでは12チャンネルの番組そのもののできが悪いかというと、決してそうではなかった。「樅の木」や「二十 四の瞳」(四・八%)は、TBSあたりでやれば二〇%をこすだろうというのが専門家の判定である。また四・四%の「宇宙家族」も、NHKが放送していた当 時は、一五・六%の視聴率だったという。こうなると12チャンネルの番組そのものが悪いのではなく、科学技術教育専門局というステーション・イメージが 取っつきにくく、なじめないことに、その原因を求めるほかはない。いくら「うちは視聴率は気にしない」と12チャンネルが強がりをいっても、このままでは スポンサーがつかないから、背に腹はかえられないわけである。(青地晨 1966「特別調査 東京12チャンネルの不幸な経緯」,『中央公論』昭和41(1966)年3月号,pp.238-239)
(声が)出ないんです。セリフはしゃべれましたけど。最初の二年間ぐらいは、セリフもしゃべれなくって、筆談だった。(中略)そ れがおととしに、東京12チャンネルの「歌謡百年」という番組で、どうしてもわたしを出したいといってきて、わたしは「いやだいやだ」といって逃げまくっ たんだけど、向こうは「ダメならダメでもいい、どうせいま歌っていないんだから、みっともなくてもいいから」なんて無責任なことをいうの(笑)。(中略)
向こうは非常に熱心で、わざわざ声楽の先生を三月(みつき)も局持ちでつけてくれた。わたしはどうせお断りするつもりだから、たいへん無愛想におけいこ していたら、声が出ちゃったんです。(中略)
その番組が、二年前のクリスマスに放映されたわけ。「湖畔の宿」や「懐しのブルース」なんか歌ったんですけど、たいへんな反響で、昔のファンの方が涙を こぼして……。(中略)
それから各テレビ局から、歌ってくれ歌ってくれっていってきて、こっちもだいたい、ネは歌が好きなんですね。だから、いい気持ちになって歌っているうち に、こんどはLPに入れようじゃないかというので入れたら、おかげさまでLPとしては空前のヒットということになったんです。(「茶の間に返り咲いた花の 素顔――健在、戦中派美人スターの芸能LP人生」,『アサヒ芸能』昭和43(1968)年5月19日号,p.54、冒頭の括弧内は引用者による)
ぜんぜん声が出なくなったんです。十三年間出なかったんです。ですから、かつてうたったということすら忘れていたのに……。 (中略)
たまたま「懐(なつ)メロ」ブームがきて、どうしてもうたってみてくれといわれて、ちょっと発声みたいなことをやってみたら、出たんですね。びっくりし ちゃった。(中略)
(歌ってみなさいと言った人は)12チャンネルの三枝さんなんですよ。だからわたくし、この方の番組だったら、どんなにやりくりしても出ます。わたくし によろこびを与えてくだすった方ですからね。(近藤日出造「“歌ってさえいればごきげん”――テレビ・ワイドショーを司会 高峰三枝子さん」,『週刊読売』昭和43(1968)年6月21日号,p.48、括弧内は引用者による)
火曜の夜9時30分、田宮二郎ショーが終っておなじみのテーマ音楽、ご存じ東京12チャンネル「なつかしの歌声」のはじまり ――。(中略)
ある日―新聞発表に小野巡とあり、夢ではないかと疑いつつも心待ちにする。以前塩まさるが初めてこの時間に登場したときはすっかり感激してつい拍手する 始末。上原敏亡きいま(中略)名調子のコブシの味が忘れられない人は、だれしも彼のいささかもおとろえぬ美声に酔わされることうけあい。めでたく『守備兵 ぶし』『音信はないか』を録音することができた。(林昭伸「ただいま本番」,「なつメロ愛好会」会報第4号,昭和44(1969)年,p.2)
時代を越えた若さ
名古屋テレビ「なつかしの歌声」(水曜後9・30)は、往年のヒット曲を司会のトップ・ライトが当時の社会情勢をコント風に説明し、時代背景をよみがえ らせつつ、当時の歌手が歌う。軽薄な内容の歌が多い昨今、叙情的な歌詞と、哀愁を帯びた曲が非常に美しく、胸打つものがある。当時歌った人が久しぶりに元 気に登場するのも、なつかしい限りだ。そしていまなお若々しい美声には驚かされるし、どんな曲にも時代のへだたりというか、古さといったものが意外に感じ られない。登場する歌手が少ないのが残念だが、家族みんなで楽しく見られる番組である。(岐阜県加茂郡川辺町比久見・有本とも子)(『中日新聞』昭和44 (1969)年4月16日朝刊,p.16)
なつメロを扱うローカル番組といえば、今でもNHKFMの地方局では、随時放送されている様です。例えば、京都のNHKでは 「なつメロをあなたに」又、以前水戸局を受信した時「いこいのひととき」という番組があって、茨城県大宮町在住の小野巡氏をゲストに放送していました。 又、私自身が戦後間もなく仙台に住んでいた時、当時のNHKに「緑の小箱」というローカル番組があって、その当時の歌謡曲やなつメロを放送していたのを思 い出します。(中略)
地方に於て、マスコミを活用してなつメロをとり入れている所としては、この長崎の他、関西地方が盛んのようです。朝日放送の「花のなつメロ大行進」近畿 放送の「この歌あの人」「只今なつメロ放送中」ラジオ大阪の「なつメロ対新メロ」その他数限りないようですが、かっての電話リクエスト・ブームがそうで あったように、地方でのブームは必ず東京にも押しよせて来ます。なつメロについてもそんな日が必ず来ると思います。なつメロの発展は地方から、今回の長崎 集会に参加して、私はこんな感想を持ちました。(幅屋三樹「なつメロとローカル番組!!“長崎集会に参加して”」,「なつメロ愛好会」会報第25号,昭和 48(1973)年,p.7)
人 気歌手の大量出演日比谷公会堂から「歌の展覧会」を一時間にわたって中継する。@ハイヌーン(黒田美治)Aドミノ(ペギー葉山)Bア・ガイ・イズ・ア・ガイ(ナンシー梅 木)Cふるさとの歌(川田孝子)D見てござる(音羽ゆりかご会)Eアデライ(斎田愛子)F春の声(東唱)G−Iのど自慢優勝者の歌曲、俗曲、歌謡曲J伊那 節(市丸)K柳の雨(勝太郎)Lヴォルガを越えて来た女(久慈あさみ)M東京スーベニア(ディック・ミネ)Nたそがれのボレロ(淡谷のり子)O丘は花ざか り(藤山一郎) (「歌の展覧会」,『朝日新聞』昭和28(1953)年3月22日朝刊,p.5)
ディック・ミネとNHKの対立は一昨年八月いらいのもの。NHKが折りからの“なつ・メロ”ブームに乗って思い出のメロディー を企画、その際ディック・ミネに出演を依頼した。これに対してディック・ミネは「東京12チャンネルの“なつかしの歌声”の人気を横取りしようというのが 気に入らない。それに出演依頼の態度がおうへいだし、ギャラも安い」と、持ち前の反骨精神で出演を拒否。さらに、その後、昨年の万博記念の「思い出のメロ ディー」でも、出演を断わっている。(「ディック・ミネとNHKが和解へ――飯田広報部長との非公式会見で握手」,『週刊TVガイド』昭和46 (1971)年4月23日号,p.46)
以上(の“なつメロ”の説明)は、戦前あるいは戦後から昭和30年代にかけてのヒット曲が対象となっているが、最近では、若者 の間で、加山雄三や荒木一郎の人気が沸騰している。彼等は10数年前に全盛きわめた歌手達だが、若者たちの音楽の原点として見直され再発掘されたものだ。 これもまた“なつメロ”であろう。(『コンフィデンス年鑑』昭和51(1976)年版,p.549、括弧内は引用者による)
T期(7〜14歳):テレビマンガ主題歌、CMソング、童謡、唱歌が好きな時期
U期(15〜19歳・20代):ニューミュージック、ロック、ディスコなど「最新流行の音楽」の世代
V期(30代):最近のポピュラーソングや演歌、民謡が上位を占め、新旧交差の世代
W期(40・50代):男女ともに演歌が1位で、タンゴ・シャンソンが入ってくるのが特色の時期
X期(60歳以上):男性のクラシックを除くと和風一色になってしまう時期
〔守谷(1982:p.56)〕
NHKの恒例となった“なつメロ特集”や東京12チャンネルの「なつかしの歌声」といった昔なつかしい歌番組がブームを呼んで いるが、この人気に目をつけたNET・毎日・中京・KBCテレビも十月第一週からなつメロ歌手総出演による「にっぽんの歌」を登場させ、“懐メロブーム” に便乗する。(中略)
出演する歌手は「ディック・ミネ、東海林太郎、渡辺はま子ら“なつメロ歌手を総ナメ”(スタッフ)する」。一方で、なつメロを歌って受けている鶴田浩 二、盛信一、水前寺清子、藤圭子など人気歌手も出演させることになっている。(「第3の“なつメロ”番組が登場――加東大介、山東昭子司会で『にっぽんの 歌』」,『週刊TVガイド』昭和46(1971)年10月1日号,p.19)
ぼくの最も嫌う旋律、それは、よくいうところの艶歌調であり流行歌調であり、えてして日本調五声音階(=ヨナ抜き音階)による 旋律なのであるが、その旋律を生かすもっとも効果的な歌詞は、言うまでもなく、日本独特の歌謡調的ボキャブラリーなのだ。即ち「涙、灯台、港、マドロス、 夜霧、濡れる、泣く、情け、男、女、うるむ、眸、悲し」などの類である。こうした名詞や動詞の密着する旋律は、例外なく艶歌調であり、五声音階による陽か 陰かのどちらかの旋法に限られているのだ。(中略)
「こんなメロディーを作るのは、お止めになったらいかがですか。これは、いけない悪い旋律なのです。なぜなら、この種の音階の中には毒素がいっぱいある からです。その毒というのは、人間の心を蝕ばんでしまう怖ろしい堕落や退廃や絶望や、その他、たくさんのいけない要素が、かくれているからです。(中 略)」
この流行歌的五声音階のテーマは更に拡大して演繹的に考えるなら、長唄や常盤津その他日本古来の邦楽作品の全てが文化を毒している、というような大問題 へも発展させる可能性があるかも知れない。(〔高木(1967:pp.26-27)〕、括弧内は引用者による)
戦前の歌謡曲歌手は殆ど音楽学校出身者でクラシックものと歌謡曲の二刀流使いで(例外、上原敏、田端義夫)、その発表意欲と収 入両面のメリットがレコード会社の営業政策と合致したので、これらの歌謡曲を積極的に吹込んだ。彼等は譜面が読め、正式の歌唱法で、しかも音量を巧みにコ ントロールできたので、聴衆には気持ち良く受け入れられた。(112)「なつメロ」と「演歌」を同一視 する古賀政男は、以下のように楠木繁夫ではなくて村田英雄を支持している。
また他の作曲家達も三者を目標に良い曲で競ったので、戦後まで好ましいこの傾向は続いたが、岡本敦郎、津村謙あたりを最後にこの流れを汲む歌謡曲存在感 は終った。その原因は三橋美智也、大人になった美空ひばり等に代表される後続の殆どの歌手がそうであるように、自己主張一辺倒の、小節を極端に利かせ、喉 をつまらせる歌唱法(いわゆる演歌唱法)が主流になりだしたからである。そして作曲家もその歌手の歌唱法に合う曲想貧困な歌だけを作曲するようになってし まった。(柴田吉之「昭和30年代初期までの歌謡曲と演歌の態様の認識」,「新・全国なつメロ愛好会」会報復刊第5号,平成15(2003)年,p.2)
戦前のは楠木繁夫がかなり掘り下げて歌っているが所詮、背広を着た吉良常であった。浪曲出身の村田英雄が歌ったものがやくざに なっていた。学校出の楠木と浪曲出の村田と、どちらが大衆の心にくいこんだか。私は日本の大衆の心を根底から揺さぶるには、やはり日本的発声法が必要だと 思う。音楽学校での教育は外国の歌を歌うための発声法で、日本語を歌うための発声法ではないからだ。(中略)
演歌は日本人の心の郷愁ともいえようか。やはり、義太夫、浪花節、清元、長唄、都々逸に通じるなにものかがある。そしてまた詩吟の中にも。これなど最も 日本的民族の歌といえよう。(古賀政男 1969「昭和を歌う我が涙の幾千曲――歌は世につれ、我れまた歌につれ “なつメロ”でつづる日本の心」,『潮』120,p.354)