第 1賞 「なつメロ」カテゴリーの成立



 テレビが一般家庭に普及する前の昭和20年代(1945〜1954年)においては、ラジオが日本人の主要なメディアであった。戦前においては、 ラジオの 普及率は昭和19(1944)年の50.4%がピークであり、まだまだ農村などにはラジオが普及していなかった。(2)ラジオがようやく全国的に満遍なく 普及をしていったのが、昭和20年代(1945〜1954年)の出来事であった。ラジオは当時の人々にとって、情報の入手源であると同時に、娯楽 を提供す るという機能としても大きな存在であった。娯楽番組の中に占める音楽番組の割合も大きいものであり、その中で「なつかしのメロディ―」という番組 が登場し た。この「なつかしのメロディー」という音楽番組の登場が、「なつメロ」カテゴリーを形成する上で大きな役割を果した。それでは、以下に見ていく こととす る。

1−1 NHKラジオ「なつかしのメロディー」以前
 ここでは、NHKラジオ「なつかしのメロディ―」の放送が始まる昭和24(1949)年以前の状況に関して考察する。「なつかしのメロディー」 以前に は、 ラジオ番組において「なつメロ」的存在と言えるものは存在していたのであろうか。ここでは、義太夫・長唄などの邦楽や、浪花節を放送する番組につ いて考え てみたい。
 まず、邦楽と浪花節に関してである。邦楽とは、明治時代以前から日本に存在する伝統音楽(古典音楽)であり、具体的には、長唄や浄瑠璃、義太 夫、俗曲・ 民 謡などが該当する。次に、浪花節は浪曲とも言うが、これは古くから伝わる浄瑠璃や説教節、祭文が基礎となって明治時代初期に誕生し、大正時代に全 盛を迎え た大衆演芸の1つである。浪花節は三味線を伴奏に用いて物語を語っていくものであるので、正確には音楽ではなく演芸であるが、「音樂と演藝はそも そも別物 ではない。種目によつてはどちらへ屬すべきか意見の分れるものも少くない。浪花節は三味線伴奏で語るから、淨瑠璃物とよく似ているので、音樂部で 扱つても いゝようではあるが、やつぱりこれは演藝物である。」(3)と いう見方もあり、厳密に音楽とジャンル分けすることは出来ない。浪花節と邦楽は、戦前の頃か らラジオ番組として放送されており、昭和20年代(1945〜1954年)においても、放送にはそれなりの時間が割かれており、聴取率も高くなっ ている。 (4)ここで注目したい点は、これ らの聴取率が 高いのは 年少者よりも年長者であるという具体的なデータが残されていることである。(5)
 邦楽や浪花節が年少者よりも年長者に好まれていたという事実は、当時の雑誌の記述からも伺える。
  
颯田 我々年齡の者は洋樂を若い時やつていても、四十五十になると日本音樂に歸るというのは歸る根據がある。それは我々 子供の時 から芝居を見ています し、鳴りものも聞いています。又街へ出ても何處へ行つても日本式のメロディーを聞いている。ところが今は幼稚園から小學校中學校に到る迄全部 西洋式教育を している。これでは四十五十になつても日本音樂には歸れない。歸るべき古巣がないのですね。〔颯田他(1949:p.2)〕
  
「若い時分は随分モダンボーイで向うの音樂に心醉していた人でも、年をとると日本音樂に夢中になるものです。」
(中略)
「そういう事は颯田琴次先生もいわれたことですが、今の年配の人は子供の時から邦樂を聞く環境に育てられてきたので、一度は洋樂を好きになつ ても最後には 邦樂の古巣へ歸つてくる。(中略)しかし今の若い者は芝居や寄席で邦樂を聞くことも殆んどないし、從つて四疊半趣味も持つていない。これでは 歸るべき古巣 もなく、邦樂は一生知らずに終つてしまうと言つていました。〔山田(1949:p.36)〕
  
私たちのような年齡と境遇の、つまり親の胎の中に居る時から洋樂に親しんだことのない者にとっては、西洋音樂は一種の努 力なしに は聽き取れないもの だ。そこへ行くと邦樂は氣樂である。進んで聽こうともしないのに、向うから無條件に聽覺に訴えて來るものがある。(中略)浪花節というもの は、何の抵抗も なく我々の耳に入ってくる邦樂の最低線の節廻しを持っている。〔深田(1952:p.23)〕

 上記3つの記述によると、既に昭和20年代(1945〜1954年)には、邦楽は”昔のもの”というイメージがあり、”今の”若者には受け付け ないもの であると い う捉えられ方をされていたことが分かる。よって、当時の年長者の人々から、邦楽や浪花節のラジオ番組が、「懐かしい」という心情を持たれて聴取さ れていた 可能性はある。したがって、仮に「なつメロ」の定義を、「昔の音楽」くらいの意味で捉えるのならば、邦楽や浪花節は間違いなく「なつメロ」と定義 すること が出来るであろう。
 しかしながら、邦楽や浪花節を、本論文で扱う「なつメロ」と同一視してよいものであろうか。このことを考える際に参考になるのが、北田暁大が自 著『広告 の 誕生』の中で、江戸時代の引札に対して、「それは《広告である》と述語づけできるようなものではない」(北田〔2000:p.48〕)と判断する 際に用い ている議論の方法である。北田はこの著書において、広告の起源を、《広告である/ない》というコードが誕生した明治初期に見定めている。それ以前 に存在し ていた江戸時代の引札に関しては、「広告的であったことは疑いようもない」(北田〔2000:p.35〕)としているが、《広告である》ことと 《広告でな い》こととを差異化するバイナリー・コードが自律した意味論を獲得していないが故に、「それは《広告である》と述語づけできるようなものではな い」と判断 を下している。ここで、《広告である/ない》というバイナリー・コードが存在していなかったと判断を下す際の基準となっているのが、「『当該状況 は「広 告」である』とことさらに差異化するような認識の枠組みが、(中略)送り手/受け手の意味空間において成りたってい」なかったという点に存在して いる。 (北田〔2000:p.35〕)要するに、江戸時代の人々は、送り手にしても受け手にしても、引札を「広告」だとは認識していなかったがために、 「《広告 である》と述語づけでき」ないのである。
 これに対して、昭和20年代(1945〜1954年)の人々は、邦楽や浪花節を「なつメロ」だと認識していたのであろうか。論者は次の点から、 「なつメ ロ」だと認識はされていなかったのだと結論付けたい。すなわち、邦楽や浪花節を観賞することによって、過去のある特定の時期を人々が想起したかと いう問題 である。昭和40年代(1965〜1974年)にブームを迎えた際の「なつメロ」は後に述べるように、昭和に入ってからの流行歌を指していた。こ こでは、 人々は、例えば軍歌を聞けば第2次世界大戦の時のことを、「リンゴの唄」を聞けば戦後の苦しい時期のことを明確に想起することが出来た。一方、浪 花節に関 しては、戦後も次々と新作が生み出されており、「古臭い、封建的だ」というイメージはあったものの、決して過去の産物として捉えられてはいなかっ たはずで ある。また、邦楽に関しては逆に、上代からの長い歴史の伝統が積み重ねられているので、たかだか数十年生きただけの人間が邦楽を聞いて、過去のあ る特定の 時点を想起することは不可能であろう。つまり、邦楽や浪花節の「○○」という題目を年配の人間が観賞したとして、明確に明治△△年や大正□□年を 想起する かというと、そうではないはずである。以上より、邦楽や浪花節は、「過去のある特定の時点を人々に想起させる存在としての『なつメロ』」(6)ではあり得 なかったのである。
 では、本稿で扱う、「過去のある特定の時点を人々に想起させる存在としての『なつメロ』」が誕生したのはいつなのであろうか。その答えが、次節 で扱う NHKラジオ番組の「なつかしのメロディー」にある。

1−2 NHKラジオ「なつかしのメロディー」
 NHKのラジオ番組で、「過去のある特定の時点を人々に想起させる存在としての『なつメロ』」が登場したのは、昭和22(1947)年3月〜9 月まで毎 週火曜日21時半から30分間放送されていた「思い出のアルバム」上である。以下、少し長くなるが、この番組の紹介文を引用する。
  
「何年か前、それは喜びと悲しみの、泪と笑いの交錯する世相の姿です……云々」の開始アナウンスのように、このプログラ ムは大正 末期から、日華事變の始まる昭和一二までの毎年のできごとを、解説・コント・音樂・或いは當時の實在人物を登場させて、今日の時代と對照し つゝ諷刺的に描 いた世相斷面圖である。この時代は日本の資本主義が第一次歐洲大戰後の好況の餘波を受けて、次第に帝國主義的な方向へ進んでいた時代であり、 その意味で當 時の社會相を浮彫りすることは單なる「思ひ出」だけでなく、多くの反省させられる事實がある。
 こうした狙ひは當然、三〇歳以上の年齡層と都會向けの番組とならざるを得なかつた。尤も、當時の流行歌・風俗・三面記事等を扱うことによつ て一般にも比 較的好評であつた。謂わば、このプログラムは大人が樂しめる演藝番組として仕組んだものである。
 例 昭和七年、ロスアンゼルス・オリンピツク大會(島浦アナの實感放送、清川選手との對談)、フエリシタ夫人事件、淺草六區映畫辨護士のス トライ キ、映畫「自由を我等に」    「三文オペラ」ETC
 昭和六年、古賀政男・藤山一郎コンビのヒツトした頃、二人の出演の外、古賀政男自らギター伴奏で、自作「影を慕いて」を獨唱。
 昭和五年、新劇勃興期、薄田研二、山本安英、二人の「ハムレツト」の一こま。他に石黒達也を交へて「築地小劇場を語る」思い出話等
 この他、特集プロとして「松井須磨子の卷」「懐しの新宿」「トーキー映畫アルバム」等がある。(『ラジオ年鑑』昭和23(1948)年版、 pp.114-115)

 このように、過去を振り返って懐かしむことを趣向とする番組は、昭和30年代〜40年代(1955年〜1974年)にかけてラジオやテレビで全 盛期を迎 えるが、昭和22(1947)年という、終戦から2年後に既に登場していたという点は興味深い。この「思い出のアルバム」という番組では、「昭和 七年」、 「昭和六年」、「昭和五年」、などのように、過去の具体的な時点を取り上げることによって、それを人々に想起させることを目的としている。この点 におい て、邦楽や浪花節の番組では為し得なかった、「過去のある特定の時点を人々に想起させる存在としての『なつメロ』」的側面を、この番組が初めて備 えていた ということが明らかとなるであろう。
 しかしながら、この「思い出のアルバム」においては、歌はあくまでも脇役的な存在に過ぎなかった。過去のある特定の時点を人々に想起させる目的 で、昔の 歌 を主役として編成した番組は、昭和23(1948)年12月27日に19時半から30分間放送した「明治大正はやり歌集」が、管見する限りで最初 のもので ある。これは30分間という短い放送ではあったが、年末の特別番組として企画されたものであったと考えられる。そして、この単発番組との関連性は 断定でき ないが、翌年の6月から放送を開始したのが「なつかしのメロディー」であった。
 「なつかしのメロディー」は、NHK第一放送で昭和24(1949)年6月12日から放送を開始、同年の9月4日までは毎週日曜日の18時半か ら45分 間 放送しており、その後9月17日から番組終了の昭和35(1960)年4月2日までは毎週土曜日の夜に放送していた。(7)ラジオが唯一の娯楽メディアで あった当時、1日の時間帯別では19時から21時ごろの聴取率が最も高かったということ、また、週末の放送であったということを考えると、制作側 がいかに この番組を重視していたかということが伺える。(8)聴 取率に関しても、全期間を通じて軒並み高聴取率であり、昭和20年代(1945〜1954年)当時 音楽番組の中で人気の高かった「今週の明星」の聴取率を上回るほどであった。(9)
 「なつかしのメロディ―」がどのような番組であったのかということに言及する前に、この番組名が「なつメロ」の語源になったということに言及し ておきた い。『現代用語の基礎知識』には、昭和43(1968)年版に初めて「なつメロ」という語の説明が「なつメロ番組」という項で出てくるが、それに よると、 「かつての『なつかしのメロディ』(NHK)から出たことばで、このような音楽番組をいう。」(10)とある。実際、当時のNHKの文献にも、『放送文 化』昭和26(1951)年9月号に「なつかしのメロディー」の番組紹介が記載されているが、それには以下のような記事となっている。
  
    a  なつめ由来記
  原語――なつかしのメロディ―
  略稱(その一)なつかし
   (用例―昨夕(ゆうべ)のなつかしとてもなつかしかったわね)
  略稱(その二)なつメロ
   (用例―おい、どうだ今晩なつメロのあとでかるくいこうか)
  略稱(その三)なつめ
   註―この語の製造發賣元はもと脚本課長で現整理課長の坂本朝一氏であると信ずる(マチガッテイタラゴメンナサイ)。その彼氏、ある日シ ンマイのス クリプトライターの小生をつかまえて曰く―(用例―おい永來クン、きみ、今週からなつめを受持ってくれたまえ)
   なつめ――ときいたとき、ドキンとしてぶるぶると二、三度身ぶるいをした。これはおそらく、宣傳、情報をふくむ教育啓蒙大放送であろう と思ったか らである。―と見てとった課長氏はニヤリと笑って小生の肩をたゝいた―「きみ、なつかしのメロディーだよ」
   そこで「なあんだ」と云ってしまった。はじめて貰った仕事だった。それに「なあんだ」はないものである。果してなあんだではすまなく なった。思えば これがヒゲキ(!)のホッタンではあった。〔永来(1951:p.42)〕

 この記事によると、昭和26(1951)年の段階では、「なつかしのメロディー」の略称として、@「なつかし」A「なつメロ」B「なつめ」の3 種類が存 在 していたことが伺える。この記事ではB「なつめ」という略称が主に採用されているが、A「なつメロ」が結局は後々に採用されていったと考えられ る。 (11)
 では、「なつかしのメロディー」とはどのような番組であったのだろうか。まず、企画者の書いた文章を引用する。
 
 「想い出の多い人程幸福である」と。
 「なつかしのメロディー」は大體戰前はやった想い出のメロディーの數々を集めて放送しているが、この時間のファンは特に大正時代から昭和の 初期に青年 期を送った人達である。
 併し又今の若い人達にもこの時間を聽いて昔はこんな歌、こんなメロディーが流行したものかと現在の流行歌と比較しながら聽くのも興味あるら しく、老 若男女を問わずこの時間に寄せるファンの數は多い。(中略)
 發足當時のフォーマットは大體次の通りである。
 即ち此の時間には必ずなつかしいメロディーをもつ一流歌手で現在なお斯界に活躍中の一人をゲストとして迎え、その得意な想い出の歌を歌って 貰い、と 同時にその當時の想い出話をも挿入して、此の時間に尚一層なつかしさの度を加えるとゆう趣向である。〔竹村(1951:p.41)〕

 この文章から「なつかしのメロディー」という番組の性質が2つ浮かび上がる。1つは、聴取層を一定年齢以上の人々と定義づけしていながらも、か と言って 若 い人達を排除するわけではなく、彼らには、昔の歌を知ってもらうことで逆に新鮮さを味わってもらおうという趣向が存在しているという点である。こ の点は、 現在のNHKの「なつメロ」番組にも受け継がれており、(12)「な つメロ」というもののあり方の一つの側面が伺える。もう1つは、「なつかしいメロ ディーをもつ一流歌手」に「得意な想い出の歌を歌って貰い、と同時にその當時の想い出話をも挿入して」もらうことにより、「過去のある特定の時点 を人々に 想起させる存在としての『なつメロ』」の側面を前面に打ち出していたという点である。以上の二点から、この番組において、「『当該状況は「なつメ ロ」であ る』とことさらに差異化するような認識の枠組みが、送り手/受け手の意味空間において成りたって」いたということが言え、《「なつメロ」である/ ない》と いうバイナリー・コードの存在が見出せるであろう。
 さて、「なつかしのメロディ―」は10年以上に渡って放送された番組であるから、番組のフォーマットも少しずつ変化していっている。どのような 変遷をた どっていっているかを、以下に番組紹介の記事を引用することで見ていきたい。

 併し當時のフォーマットの内容は一定のテーマをもたぬため、童謠あり、俗曲あり又セミクラシックありで、内容的に不統 一な憾み があったので、昨年十 二月から、このフォーマットを一部改め、必ず「何某愛唱歌集」、「何某作曲集」等一定のサブタイトルを付けて、内容的に統一あるものにした。
 その結果としては、従來のように三十分間の内に、童謠、歌謠曲、セミクラシックと、あらゆる種目を同時間に樂しめないとしても、此の時間全 部を通じ て、歌謠曲或は又セミクラシックと各々好きな方々に夫々その折に應じて、適當に取捨撰擇して十分に樂しみ味わっていただけることと思ってい る。
さて此の時間では聽取者をしてその嗜好調査の最大系数を求めた場合は矢張り何といっても、歌謠曲になつかしの想いを寄せるものが大多數でもあ り、勢い歌謠 曲を内容として取上げる回數が多くなることは當然である。
 併しながら、又セミクラシックやその他のものを想い出の對象にされる人達のあることをも無視するものではない。
 つまり一ヵ月間平均四回の放送とすれば、二回を歌謠曲に、殘りの二回をセミクラシック其他の内容により組んで、廣く一般に樂しんで貰うよう 意圖して いるものである。
 企畫に際しては、大體次のような各テーマに基いて内容を決定している。
(1) ゲストを中心とするもの。(例=「何某愛唱歌集」、「何某作曲集」等)
(2) 時代的な想い出をテーマとするもの。(例=「明治・大正流行歌曲集」、「昭和流行歌曲集」等)
(3) 映畫演劇等の主題歌曲をテーマとするもの。(例=「日本・アメリカ・歐洲映畫主題歌曲集」、「想い出の松竹(寶塚)少女歌劇アルバム より」 等)
(4) 樂曲を中心とするもの。(例=「叙情歌曲集」、「女學生愛唱歌集」等)
(5) 季節をテーマとするもの。(例=「海の歌曲集」、「冬の歌曲集」等)
(6) その他                                                       〔永来 (1951: p.41)〕

 ところで、レコード歌謡曲が町に氾濫する今日、いわゆるアヴァンの層には昔の日の思い出を、若い人たちには古い歌謡曲 や歌曲 を、そして子供たちには 昔の唱歌、童謡を、しかも、その各々の中でも名曲と思われるものだけを拾いあげて、家庭団欒の土曜の夜の食後のひとときを、楽しんでいただこ うというの が、企画者の狙いであり、願いである。
 他の番組との関係上、一応明治から大正、そして終戦の昭和20年までを対象として立案、選曲することとしているが、この点が外部には判然と していないた め に、投書の面から見れば、戦後の歌、戦後の歌手を対象とした企画を要望されるし、また、その要望を満たされないのも、右のような制約によるも のである。な お、27年来、「はやり歌明治・大正・昭和」さらには「歌う明治・大正・昭和」というサブタイトルをつけて、著名な流行歌を年代順に取り上 げ、特に、その 歌を吹込んだ歌手に出演して頂いたが、これは一応の成果を得たものと思われる。
 いずれにしても、昔を想い、思い出をたどる人間のもろさを狙うこの番組は、歌曲、流行歌、童謡、俗曲という、その素材の豊かさとともに、健 全な娯楽 音楽番組として、成長させたいものである。(『NHK年鑑』昭和29(1954)年版,p.117)

 レコード歌謡曲が、町に氾濫する今日、いわゆるアヴァンの層には、昔の日の思い出を、若い人たちには美しいメロディと して、歌 謡曲、歌曲、童謡、俗 曲の中の名曲を提供し、家庭団らんの土曜の夜の食後のひとときを、楽しんでいただこうというのが、企画者の狙いであり、願いである。
 他の番組との関係上、一応明治から大正、そして昭和(終戦)までを対象として立案、選曲することにしているが、28年度は、「歌う明治・大 正・昭和」と い うサブタイトルのものや、「昭和流行歌シリーズ」などと題して、年代を追って流行歌を配列、その歌をヒットさせた歌手の出演によって、一層懐 かしみのわく ように配慮した。(『NHK年鑑』昭和30(1955)年版,p.129)

 昭和24年に発足したこの番組は、250回という回を重ねている。昭和28年から始まった「昭和流行歌シリーズ」も、 終戦当時 の歌をもって一応終っ たので、29年11月から「歌で描く明治、大正、昭和」というタイトルのもとに、明治初年から年代を遂って、流行歌を並べて世相を描くことに した。昭和 30年3月をもって、明治、大正を終り、4月から昭和篇に入るが、全篇を通ずると、1ヵ年半くらいかかるであろう。なお、脚本は歌謡曲界の歴 史的考証の ヴェテラン丘十四夫氏が書いている。
 毎年3月に行う「校歌寮歌集」は、毎度人気を博し、中でも、与謝野鉄幹詞「人を恋うる歌」は、初めて放送に出たものであるが、青少年から、 大変な反 響を呼んだ。(『NHK年鑑』昭和31(1956)年版,pp.140-141)

 毎週土曜日の夜「なつかしい歌のアルバムを開いて、過ぎし日の思い出をしのぶ」この番組も、昭和24年6月に始めて以 来、30 年の8月20日で 300回を迎え、これを記念しNHKホールで藤山一郎、霧島昇、淡谷のり子、勝太郎さんほかの豪華メンバーによる公開放送を行った。29年の 11月明治初 期のはやり唄から始めた「歌で描く明治・大正・昭和」シリーズも、31年3月31日戦後の流行歌までで完結を見た。種々の歌謡曲が巷に流れる 現在、むかし の歌謡曲で、戦前からの歌謡ファンになつかしんで頂くばかりでなく、唱歌、童謡、俗曲なども織りまぜ、一家揃って夜のひとときを楽しんでいた だけるよう、 健全な娯楽音楽番組としての意図を盛り込んだ。(『NHK年鑑』昭和32(1957)年版,p.118)

 31年度は、1年半にわたる「歌で描く明治・大正・昭和」シリーズのあとをうけ、各回異る趣向で、或いは季節に因むさ くらの 歌、夏休みに因む小学唱 歌集、或いは特異な作風を示した故人、北原白秋、滝廉太郎をしのぶ番組を編成した。必ずしも歌謡曲一方に偏せず、時に幼い日の思い出にひたっ ていただける ような童謡を放送したことが、一部週刊雑誌で好評を受けた。8月の聴取率調査においても、音楽番組として最高を示した。通常番組の枠によら ず、特集とした ものでは、旧盆の戦後11年間のヒット曲を「りんごの歌」から「かえりの港」に至るまで、16人の第1選歌手の出演で組んだもの、文化のひの 特集として、 明治の始めから昭和まで、特に一世を風靡したメロディを45分にまとめたものがあるが、後者は、放送芸能祭期間中、最高の聴取率を記録した。 この間、9月 にメルボルン・オリンピック選手派遣に協力し、仙台市公会堂で公開放送を行った。(中略)12月、この番組にゆかりの深い作曲家中山晋平さん の命日を前 に、その作品の主要なものを集め、親交のあった西条八十、増沢健美さんを招いて、ありし日をしのぶ番組とした。番組の性質上、他では聞けない 古い曲が出る と、歌詞、楽譜をとの希望が係りに殺到した。(『NHK年鑑』昭和33(1958)年版,pp.119-120)

 季節によせる曲、ひと昔前の映画主題歌等は、幾度くりかえしても、なつかしい思い出をよみがえらせ、好評を得ている。 32年度 の特殊なものとしては、 10月の「君恋し」、「鉾をおさめて」で知られる時雨音羽さんの作詞生活30年を記念してその作品を集めたもの、12月の長い歌手生活を引退 する小畑実さ んのヒット曲を綴った放送、33年3月放送文化賞を受けた藤山一郎さんの足跡をその愛唱歌で回顧した放送等がある。なお、12月には、北海道 の小樽と札幌 で公開録音を行い、人気を集めた。(『NHK年鑑』昭和34(1959)年版,p.128)

 また、通常でも種々新企画を考案し、流行歌70年や「歌のたび」で全国各地を歌で巡り、各地の風俗、習慣等も織り込ん で、地方 各局の協力を得て、この 番組を全国的に盛り上げていった。(『NHK年鑑』昭和35(1960)年版,p.148)

 34年4月から、榎本健一さんを語り手に、おもしろく昔を回顧する試みや、下半期、家族そろって時代の変遷を語る劇化 構成、ま た、金語楼、渋沢秀 雄、古賀政男さんをゲストに迎えるなどの方法をとり、素材は同じ歌でも異なった装いをこらすよう努めた。島崎藤村氏の命日に故人の詩を集め、 生地馬籠を訪 ねたり、伊勢湾台風の晩、大編成楽団で静かなワルツ・アルバムを放送して好評を得、また、4月長崎、6月新潟、11月日立と行なった地方公開 録音のうち、 師走初め都下多摩全生園に出演歌手の協力で患者慰問をした際、涙を浮べて拍手された姿は忘れ得ぬ思い出となった。
 昭和24年に始まった「なつかしのメロディ―」も、いちおう所期の目的を達し、新しい番組として改めて発足するため、35年4月2日の放送 をもって 最終回とした。歌謡曲界の生きた歴史ともいうべき西条八十さんを迎え、その思い出のアルバムとしたが、この番組が消えても思い出の歌が、皆さ まの心のとも しびとして永遠に残ることを祈り、長い間御愛聴頂いた方々、出演の人々に深く感謝の意を表したい。(『NHK年鑑』昭和36(1961)年 版, p.165)

 以上が「なつかしのメロディ―」の10年に及ぶ放送の変遷である。このことから分かるのは、あらゆる年齢層や立場の人々を対象に、彼ら全てが 「懐かし い」あるいは「新鮮だ」という感情を呼び起こすことが出来るようにと、番組を制作していたということである。聴取者の嗜好の比率を考えると、この 番組で扱 う歌は、時代別では昭和以降、ジャンル別では歌謡曲を扱う比率が他よりも多くなっている点は事実であるものの、あらゆる年齢層や立場の人々に楽し んでもら えるようにと、明治時代や大正時代の歌、歌謡曲以外のジャンルの歌にも相当の時間を割いて番組を構成していたことが分かる。


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