第2章 昭和 40年代の「なつメロ」ブームが起こるまで


2−1 NHKラジオ「なつかしのメロディ―」以降
 NHKラジオ「なつかしのメロディ―」の放送が開始して以降、昭和40年代(1965〜1974年)に「なつメロ」ブームが起きるまでの間、 「なつメ ロ」はどのように扱われてきたのであろうか。この節では、昭和20年代後半〜昭和30年代(1950〜1964年)の様子を概観した上で、この時 期の「な つメロ」の特徴を見ていくこととする。


2−1−1 ラジオ番組、テレビ番組

 NHKラジオ「なつかしのメロディ―」の放送開始後、他のNHKラジオ・テレビ番組や民放ラジオ番組において、次々と「なつメロ」番組が登場し た。ま ず、 その具体例を以下に箇条書きにする。

<NHKラジオ番組>
「黄金(きん)のいす」:昭和27(1952)年11月か ら始まっ た30分間のミュージカル・ショー番組であり、「現在、軽音楽界の第1線に活躍する歌 手、作曲家、作詞家を、黄金のいすに迎えて、その作品を中心として、半生のプロフィルを伝記的に紹介する」(13)ものであった。これは、昭和28 (1953)年3月までは毎週火曜日22時15分〜22時45分、昭和28(1953)年4月から同年10月までは毎週金曜日22時30分〜23 時、同年 11月からは毎週金曜日19時30分〜20時に放送し、昭和30(1955)年3月に終了した。
「思い出によせて」:昭和27(1952)年11月から翌 年の3月 まで「『昭和の横顔』の副題で、昭和の世相を流行歌、レコードを中心に、実況録音など を配して、構成した」番組である。(14)これ は、毎週 金曜日21時15分〜21時45分に放送した。
「歌は結ぶ」:「歌につながる思い出を素人出席者(一般の 聴取者) に」、その歌や曲を聞きながら「語って貰う」(15)と いうもので、昭和31 (1956)年11月から毎週火曜日22時35分〜23時に放送し、水曜日の同じ時間帯に移った後、昭和35(1960)年3月に終了した。そし て、昭和 39年4月に復活し、翌年の3月まで、毎週月曜日22時15分〜22時40分に放送した。
「昔は昔今は今」:「『なつかしのメロディ―』にかわる新 番組とし て」登場した番組で、昭和35(1960)年4月から翌年の3月まで、毎週水曜日20時30分〜21時に放送した。「1つの風俗テーマを中心とし たコント と、そのテーマに適した各国各時代の有名曲を組み合わせたバラエティ形式」の番組で、「なつかしい歌中心の風俗絵巻のなかに、昔と今との人情風俗 の対比か ら生まれるユーモアと人間諷刺を盛り、毎月4回乃至5回を1シリーズとして、『人生とアクセサリー』、『人生のひととき』、『人生と仲間』等の テーマを取 り上げた」ものであった。(16)
「思い出のアルバム」:「『昔は昔今は今』に代って発足し た構成番 組で、一つの時代の世相・風俗を象徴する音楽をテーマにし、その時代の有名曲を組合わせて、なつかしい歌中心の風俗絵巻を繰り広げ」(17)たものであっ た。昭和36(1961)年4月から、昭和38(1963)年3月までは、毎週水曜日20時30分〜21時に放送し、昭和38(1963)年4月 から昭和 39(1964)年3月までは、毎週水曜日22時10分〜22時45分に放送した。
「あなたの曲わたしの曲」:週末の午後のひとときを楽しむ ダブル・ ディスク・ジョッキー番組」であり、「前半は聴取者からのリクエスト曲を、後半は芸能関係の一家を招き、一人一人のリクエスト曲を聞きながらその 想い出な どを語ってもらう」(18)もので あった。昭和 36 (1961)年4月から昭和38(1963)年3月まで、毎週土曜日13時30分〜14時に放送した。
「歌謡ホール」:昭和39(1964)年4月から昭和40 (1965)年3月まで、毎週金曜日20時〜21時に放送し、同年4月からは毎週土曜日19時30分〜20時15分に放送した。この番組は3部構 成であ り、第2部の「思い出のメロディー」において、「大正から昭和30年まで年代を追って構成するほか、季節にちなんだ選曲を行な」い、「月1回は東 海林太 郎、岡晴夫、勝太郎、菊池章子などベテラン歌手のワンマン・ショーとし」ていた。(19)
「歌謡アルバム」:昭和41(1966)年4月に、FM放 送による 唯一のステレオの歌謡曲番組として新設された。同年「4〜7月は、美空ひばり、東海林太郎らベテラン歌手のヒット曲集をワンマンショーのスタイル で、シ リーズとして組み、8月以降は、中堅、新人も加えたヒットメロディーを放送」している。(20)昭和42(1967)年からは、「ワンマンショー形式や、 最新のヒット曲ばかりでなく、なつかしの歌謡曲歌手のステレオレコードも多く出てきたので、新しく『なつかしのメロディ―コーナー』を設けて、思 い出の歌 手のヒット曲に、その当時のエピソードをおりこんだもの」を構成するようになった。(21)毎週土曜日12時15分〜13時に放送した。

<NHKテレビ番組>
「黄金の椅子」:かつてラジオで放送されていたものが、テ レビ番組 となって登場した。昭和31(1956)年11月に放送を開始し、昭和33(1958)年3月までは毎週木曜日20時30分〜21時まで、同年の 4月から 昭和35(1960)年3月までは毎週火曜日20時〜20時30分に放送している。そして一旦放送を終了した後、再び昭和39(1964)年4月 から昭和 41(1966)年3月まで毎週木曜日20時〜20時30分に放送をしている。(22)
「歌は生きている」:「ゲストに異色ある人たちを迎え、或 る時は感 動的に、或る時は楽しく、或る時はほほえましく、その話の展開にしたがって思い出の歌をきく」(23)という番組であり、昭和35(1960)年4月から 昭和38(1963)年3月まで毎週火曜日20時〜20時半に放送した。
「ここにも歌がある」:いろいろな場所で暮らしている人々 に歌の思 い出を聞き、歌い手と共にその人々の元に訪れて楽しんでもらいながら、夢と感動と励ましを与えるという番組であった。昭和38(1963)年4月 から翌年 の3月まで、毎週火曜日22時〜22時30分に放送した。(24)

<民放ラジオ番組>
 民放ラジオ局は、昭和26(1951)年9月1日に中部日本放送と新日本放送が開局して以来、次々と全国で開局した。民間放送局は全国各地にあ り、「な つメロ」番組全てを網羅するのは困難であるため、目についたものをここでは紹介する。
「歌謡五十年史」:東海地方では朝日放送が毎週火曜日19 時20分 〜20時に、関東地方では文化放送が毎週金曜日20時〜20時30分に、昭和27(1952)年前後に放送している。扱う流行歌の時代範囲は、明 治時代か ら昭和戦前期となっている。
「なつかしのリズム」:東海地方では、朝日放送が毎週月曜 日から土 曜日に、12時〜12時25分に放送している。昭和27(1952)年2月から放送開始。
「想い出のヒットメロディ」:関東地方では、新日本放送 が、平日朝 の9時30分〜10時30分に、昭和27(1952)年の秋くらいにかけて放送している。
「なつかしの歌謡集」:関東地方では、朝日放送が毎週月曜 日18時 35分〜19時に、昭和27(1952)年7月から12月まで放送している。
「なつかしのうたごよみ」:関東地方では、文化放送が、土 曜日を含 む平日の10時45分〜11時に、昭和35(1960)年10月から昭和36(1961)年にかけて放送している。
「あの夢この歌」:関東地方では、文化放送が、毎週水曜日 20時 30分〜21時30分に、昭和35(1960)年11月から放送している。(25)

 以上見てくると、昭和20年代(1945〜1954年)から30年代(1955〜1964年)にかけて、次の章で扱う昭和40年代 (1965〜1974 年)の「なつメロ」ブームが起きる以前から、NHKや民放各社のテレビ・ラジオ番組で多彩な「なつメロ」番組を放送していたという事実が浮かび上 がる。 もっとも、簡単に「なつメロ」番組とひとくくりに出来るものではなく、それぞれの番組のテーマは異なっているのだが、歌を題材に、「過去のある特 定の時点 を聴視者に想起させる」という点では、どれも共通している。俗に「歌は世につれ」とよく言われるが、歌はその時代時代の世相や様子を反映するもの であるか らこそ、「過去のある特定の時点を人々に想起させる」目的のためには、歌、とりわけ流行歌を用いるのが適しているのだと言えよう。逆に言えば、こ の時代の マスメディアは、積極的に人々にノスタルジーの感情を呼び起こさせようともくろんでいたことが分かる。

2−1−2 リバイバル・ブーム
 次章で述べていく「なつメロ」ブームは昭和40年代(1965〜1974年)に起こったものであるが、それ以前の昭和30年代 (1955〜1964年) の半ばにはリバイバル・ブームが起こっていた。まずはリバイバル・ブームに関して、先行研究を踏まえながらまとめていく。
 まず、池田(1985)によると、「いわゆるリバイバル・ブームは昭和34(1959)年の村田英雄の『人生劇場』に始まり、アイドル歌手だけ でなく広 範囲の歌手が、かつてのヒット曲を再吹き込みした」。リバイバル・ブームは、「青春歌謡やロカビリーの歌手が(中略)挑戦してヒットを生み出し た」現象で ある。〔池田(1985:p.22)〕

それらは新しいリズムを導入した編曲で意匠をこらしており、ヤング層にはリバイバルという印象なしに浸透していったのだ し、多分 にひとつのヒットに追随する業界の姿勢の現れでもあったのだが、少なくとも、ロカビリーの熱狂についてゆけないアダルト層には戦前への郷愁と して受け入れ られたことは確かである。
 繰り返すことになるが、安定ムードの中で過去をふり返って自分自身を検証し、将来に向けて自分が何者であるかを問うとき、ひとつはアメリカ 型風俗への傾 斜があるとしても、一方の極には日本的伝統への回帰、戦前的価値の再確認があったとしても不思議はない。そして、アダルト層にとっては、この 時期の第二の 混乱期は後者への志向を強める結果となった。〔池田(1985:p.341)〕

 次に、古茂田他(1995)によると、リバイバル・ブームという概念を一般的にしたのは、やはり昭和34(1959)年の村田英雄の『人生劇 場』であ り、昭和35(1960)年の「無情の夢」(佐川ミツオ)、「雨に咲く花」(井上ひろし)、昭和36(1961)年の「君恋し」(フランク永井) のヒット により、レコード会社各社が競ってリバイバル物を手がけていくようになった。これがリバイバルの第一段階である。第二段階に入ると、リバイバルの 中身が変 化した。

はじめは昭和初期のいわば歌謡曲の“古典”ともよぶべき曲が歌われていたのが、次第に日中戦争中の歌にまでひろがって、 “大陸も の”から、軍歌・軍国歌謡までがリバイバルに便乗して息をふきかえしてくるようになった。軍歌の復活の糸口をつくったのはアイ・ジョージの 「戦友」だっ た。アイ・ジョージはこの歌を戦争否定の決意をこめて切々と絶唱したが、そのことはジョージの主観と関係なく、客観的に歌謡曲の軍国主義ブー ムへの突破口 を切り拓いてやる結果になった。かくして哀調をおびた軍歌が“哀しき軍歌”としてまかり通ることになった。
 そこへ例の<オリンピック>と<明治百年>ときたものである。軍歌はたちまち勇壮活発なものだ……と太平洋戦争中のものまで堂々と電波に乗 るありさまと なってしまった。本来ならば反戦の歌、戦争反対の歌が放送されるべき終戦記念日は、軍歌・軍国歌謡のオンパレードになり、まさに好戦記念日に なってしまっ た。ここに、リバイバルの真のねらいがどこにあったのかということが明らかになってくる。橋幸夫の「ああ特別攻撃隊」(川内康範詞・吉田正 曲・六四年)な どといった戦争中かと思われる新曲が登場するのと並行して、「若鷲の歌」を西郷輝彦に歌わせるなどして、意識的に若い層に軍国歌謡を浸透して いこうとして いることが注意をひく。〔古茂田他(1995:p.14)〕

 ではここで、池田(1985)、古茂田他(1995)などを参考に、実際に当時の主なリバイバル曲を取り上げ、元々の曲が作られた、もしくは流 行った年 代と併せて整理してみることにしよう。

昭和32(1957)年
「船頭小唄」(森繁久彌)(26)⇔大正10 (1921)年

昭和34(1959)年
「人生劇場」(村田英雄)⇔昭和13(1938)年(楠木繁夫)

昭和35(1960)年
「無情の夢」(佐川ミツオ)⇔昭和10(1935)年(児玉好雄)
「ダンチョネ節」(小林旭)⇔明治時代(神奈川県民謡)(27)
「ズンドコ節」(小林旭⇔)昭和20(1945)年ごろ(28)
「雨に咲く花」(井上ひろし)⇔昭和10(1935)年(関種子)
「十三夜」(ふりそでシスターズ)⇔昭和16(1941)年(小笠原美都子)

昭和36(1961)年
「熱海ブルース」(佐川ミツオ)⇔昭和14(1939)年(由利あけみ)
「北上夜曲」(多摩幸子・和田弘とマヒナスターズ)⇔昭和16(1941)年(29)
「君恋し」(フランク永井)(30)⇔昭和4 (1929)年(二村定一)
「泪の乾杯」(フランク永井)⇔昭和22(1947)年(竹山逸郎)
「北帰行」(小林旭ほかの競作)⇔昭和16(1941)年(31)
「涙の渡り鳥」(佐川ミツオ)⇔昭和7(1932)年(小林千代子)
「別れの磯千鳥」(井上ひろし)⇔昭和27(1952)年(近江俊郎)
「東京ワルツ」(井上ひろし)⇔昭和29(1954)年(千代田照子)
「並木の雨」(井上ひろし)⇔昭和14(1939)年(ミス・コロムビア)
「湖畔の宿」(森サカエ)⇔昭和15(1940)年(高峰三枝子)
「妻恋道中」(鹿島幸治)⇔昭和12(1937)年(上原敏)
「流転」(赤木圭一郎)⇔昭和12(1937)年(上原敏)
「じんじろげ」(森山加代子)⇔大正時代(32)

昭和37(1962)年
「島の娘」(松尾和子)⇔昭和8(1932)年(小唄勝太郎)
「東京ラプソディ」(神戸一郎)⇔昭和11(1936)年(藤山一郎)
「祇園小唄」(中原美紗緒)⇔昭和5(1930)年(藤本二三吉)
「上海の街角で」(高城丈二)⇔昭和13(1938)年(東海林太郎)
「九段の母」(及川三千代)⇔昭和14(1939)年(塩まさる)

昭和38(1963)年
「戦友」(アイ・ジョージ)⇔明治38(1905)年

昭和43(1968)年
「若鷲の歌」(西郷輝彦)⇔昭和18(1943)年(霧島昇、波平暁男)(33)

 上記リストから浮かび上がることは、昔の歌をリバイバルしたのは、若手歌手がほとんどであったという事実である。また、リバイバルの対象となる 歌は、明 治時代のものから第2次世界大戦後のものまで、時代は広範囲にわたっているが、その中では昭和戦前期・戦中期に作られたものが多くなっている。ま た、昭和 戦中期のものに関しては、当時レコードに吹き込まれて全国的に流行したものに限らず、学生や兵隊などの間で愛唱されていたに過ぎなかったものが、 昭和30 年代(1955〜1964年)になって急遽リバイバルとして流行りだしたというものが少なくないという特徴もある。
 以上、先行研究などを踏まえると、リバイバル・ブームの特色としては、@青春歌謡やロカビリー出身の歌手など、当時の若者に人気のあった若手歌 手がリバ イバルしていたために、「ヤング層にはリバイバルという印象なしに浸透していった」(34) Aヤング層だけでなく、当時の若者向けの音楽についていけな くなりつつあったアダルト層に対しても、「戦前への郷愁として受け入れられた」 Bリバイバル・ブームは、当時世相として起こっていた復古調の流 れを汲む ものであったことは間違いないが、リバイバル・ブーム後期の段階には、軍歌・戦時歌謡までがリバイバルされるに到った の3つが挙げられよう。
 ここで、リバイバル・ブームの様相を伝える当時の雑誌記事があるので、以下に引用しよう。

親爺も知ってる息子の歌
「なんだ、その歌ならお父さんだって……」
「へえ、そいつはイカスなァ」
 あなたのご家庭でも、きっとこうした会話があったにちがいない。
“なつかしの歌曲”は、いますごい勢いで復活してきている。レコード会社の窮余の商策だという説もあるが、これには、親と子の世代のズレを埋 めてくれたと いう、意外の効用があるようだ。
思い出のメロディー
 Nさんの一人娘は中学一年、ローティーンだ。会社の仕事がいそがしいので、Nさんが、娘さんと話しあうような機会は、ほとんどない。いつも 気にはしてい るのだが、まあ娘の相談相手は母親にまかせておけ、そうこうしているうち、Nさんと娘さんとの間に、何となくズレがうまれてきた。セーターを 買ってやった とき、そのズレは一瞬失われるが、翌日からはまたズレはじめる。ところが、ある日、娘さんが、Nさんにいった。
「『無情の夢』買ってよ」
「ナンだい、それは」
 佐川ミツオというまだおシリの青そうな歌手が吹きこん だレコードだ という。その夜、Nさんは金三〇〇円ナリで買ったくだんのレコードを娘さんに渡した。 プレーヤーにかけてみると、何と、N氏がニキビ少年のころ、愛唱したはやり歌のメロディーではないか。ロッカバラード調に仕立てなおされたリバイバル歌 『無情の夢』に聞きほれている娘さんに向かって、Nさんはいった。
「あ、その歌なら、お父さんも知ってるよ、昭和十年ごろ大流行したんだよ」
 娘さんは、目をまんまるくして、
「あらそう。ムカシの歌も、ワリカシいかすわね。」
 新しいものなら何でもよく、古い昔のものには反射的にソッポを向くとばかり思っていた娘さんが、父の世代に対してはじめて、「いかす」と いってくれたこ とに、Nさんは気がついた。
意外の反響に驚く
 三〇〇円のレコード一枚が、いつも感じていた、あのズレを 埋めてく れた。娘さんの世代をわからぬわからぬと思っていたが、 案外そうでも ないんだナ…… と、Nさんは娘さんの横顔をあらためて見つめた。
 翌日、この“わが家のエピソード”を職場で話すと、おどろいたことに、上役のF氏、同僚のY氏も、同じような経験をしたという。F氏など は、こどもと いっしょに、音楽喫茶まで足をのばして、父と子のきずなをリバイバル(復活)させているということだった。
 毎週火曜日のゴールデン・アワー(午後八時〜八時三十分)に、NHKTVから『歌は生きている』という番組が放送される。聴視率二〇l前 後、NHKTV ではベスト・テンに入る人気番組のひとつだ。
 二月二十八日の火曜日には、一高、二高、四高など東日本関係の旧制高校寮歌が放送され、大変な反響を呼んだ。
「こんどは、ぜひ合唱隊に加えてくれ」
 という卒業生氏や、
「高校二年の息子が、“パパたちはいい歌を歌ったんだね。僕もこの歌を聞いたら、なんだかファイトがわいて、モリモリ勉強する気になった”と いっている」
 と、感謝の投書を寄せたパパもいた。
 むろん、オールド・ファンだけではない。
「生徒が覚えたいというので、譜面を送ってほしい」
 という中学の校長さんや、クラス一同の連署で、“再放送”を要望してきた都内の女子高校生など、若い人たちにも、強い感銘を与えたようだ
「この番組は、曲のもっている不朽の生命といったものを再現しようというネライでやっているものですが、いい歌は、いつの時代になっても受入 れられるもの ですね」
 担当の川口プロデューサーも、“意外な反響”にご満悦の表情である。
旧制高校の寮歌に
 ――旧制高校の寮歌をきいているうちに、自然にその寮歌を口ずさんでいました。一度聞いただけで、口ずさむことができたのはなぜでしょう。 それは歌自身 が、“生きている”ということです……
 これは、三月六日の毎日新聞にのった十七歳の高校生の投書である。
 NHKだけに限らず、このところ各放送局はちょっとした“リバイバル・ブーム”である。
 フジTVでは、毎日曜日の『ゴールデン・ステージ』で、毎回一曲ずつ『今週のリバイバル』を取上げはじめた。
 昨年秋から、『懐しの歌ごよみ』を毎晩放送している文化放送では、ことしの一月から、あたらしく『あの歌あの映画』をスタートさせたし、こ のほか『思い 出のメロディ』など、“リバイバル番組”が目白押し。いずれも、歌謡曲番組としては、高視聴率を誇っているそうだ。「スポンサーにも、ことし はリバイバ ル・ブームが到来することを強調している」と、松本茂夫文芸部デスクは語っている。(「親爺も知ってる息子の歌――リバイバル・ソング流行の 秘密――」, 『サンデー毎日』昭和36(1961)年3月19日号,pp.12-13、通常フォント文字の太線は引用者による)

 この引用記事からは、リバイバル・ブームがヤング層に積極的に受け入れられていただけでなく、当時の若者の文化についていけなくなりつつあった アダルト 層からも歓迎されるべきものであったことが分かる。(35)し かも、NHKラジオ「なつかしのメロディ―」以降に続々と登場した、ラジオ、テレビの「なつ メロ」番組も、「“リバイバル番組”」として、リバイバル・ブームに組み込まれていったことも伺える。(36)
軍歌のリバイバルに関しては、以下のような説明がなされている。

ヒットする“軍歌集”
 このほか、同社(日本ビクター:引用者注)が昨年秋に出した『思い出の軍歌集』は、かくれたヒットのひとつといわれている。LP三枚に、 『勇敢な水兵』 『麦と兵隊』『愛馬行進曲』『ラバウル小唄』『など三十六曲の“思い出の軍歌”が収められているが、
「いや、おどろきました。七、八万枚は出たでしょう。ちょっとくすぐったい気もしますが、あくまで楽しい歌として、流行歌風にアレンジし、人 気歌手に歌わ せたのが成功したのでしょう」
 と、宣伝部はニヤニヤ。味をしめた同社では、近く第二の“思い出のメロディー”を企画しているそうだ。
 異色のリバイバルだが、『軍歌』となると手放しで歌いしれているわけにもいかないかもしれない。(「親爺も知ってる息子の歌――リバイバ ル・ソング流行 の秘密――」,『サンデー毎日』昭和36(1961)年3月19日号,pp.14-15)

 昭和20年代(1945〜1954年)当時には、軍歌はまだタブーとされていたが、(37)この時期に到って、軍歌もリバイバル・ブームの流れに乗って 再評価され出したということが分かる。

2−1−3 レコード
 テレビが一般家庭に普及する以前の昭和30年代(1955〜1964年)以前において、レコードはラジオと並ぶ主要な音楽メディアであった。で は、レ コードはいつ頃から「なつメロ」ものを発売するようになったのであろうか。レコードは、昭和30年代(1955〜1964年)のリバイバル・ブー ムとどの ように相互作用し合い、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームにはどのように繋がっていったのであろうか。次章で論者は、東 京12 チャンネルという一テレビ局が「なつメロ」を体系化し、「なつメロ」ブームをもたらしたのだということを述べていくが、その点を踏まえていくと、 昭和30 年代(1955〜1964年)以前と昭和40年代(1965〜1974年)のつながりを捉えていく際には、ラジオやテレビといった放送メディアよ りも、レ コードの発売品目の変遷をたどっていった方が分かりやすいと考えている。
 レコードの発売品目の変遷を正確にたどっていくためには、各レコード会社が戦後に発行したカタログ(月報)を、時代順に丹念に調べ上げていくこ とが必要 になる。しかしながら、戦後のレコード会社のカタログ(月報)は、国会図書館を始めとする全国の図書館には所蔵されていない。また、コロムビア社 に関して は、東京都内にあるアーカイブセクションという、同社が管理する場所に保管されており、閲覧の許可もいただけたのであるが、残された修士論文執筆 の時間の 都合により、断念せざるを得なかった。よって、今回は、先行研究及び、国会図書館に所蔵されている各レコード会社の総目録を参考にしながら、大ま かな流れ を述べていくにとどめることとした。(38)
 まず、森本(2003)では、以下のように説明がなされている。

 昭和35(1960)年に日本コロムビア鰍ェ創立50周年の記念事業の一つとして、「昭和4年から昭和35年までコロ ムビアが 発売した多くの流行歌 の中から100曲を選んで編集し」たものを、発売当時のオリジナル・レコードを使って『日本歌謡史―懐かしの歌のアルバム』 (COLUMBIA/AL4001〜3/35.11)を発売したのがキッカケとなって、各社からかつてのヒット・レコードの復刻盤が競って発 売されるよう になった。
 この種の復刻盤はいずれも発売当時のオリジナル・レコードからの復刻であるために、かつてのカンヅメ音楽的な音のモノが多くて聞き辛いモノ もある が、オールド・ファンにはそれがかえって「チコンキ」の音を想い起こさせ郷愁をそそった。そして、世相を映して歌い継がれていく歌謡曲の流れ を通して、そ の時々の社会の姿と庶民生活の生きた歴史を知るうえに貴重な資料である。

 なお、オリジナル・レコードから復刻した作詞者、作曲者、歌手等の個人全集や選集は100種以上が発売されている。こうしたリバイバル・ ブームの波 に乗って戦後の歌手が昭和初期の歌を新しいスタイルで歌ったものが出るようになり、フランク・永井が歌った『君恋し』音羽時雨詞/佐々紅華曲 /寺岡真三編 曲/フランク・永井唄(VICTOR/VS541/36.8)が、応募曲数432曲(歌謡曲390曲)の中から選ばれて第3回の「レコード大 賞」を獲得し た。    そして、このころから歌謡曲のレコード界はリバイバル・ブームを呼び起こしたが、注目すべきことはリバイバル曲を歌っているのはロカビ リー歌手が多 いことであった。〔森本(2003:pp.361-362)〕

 一方、古茂田他(1995)では、以下のような記述となっている。

レコードではコロムビアが創業五十周年記念として発売した『日本歌謡史』の成功をおっかけて、各社が、歌謡史ものを発売 して(リ バイバル・)ブームに 便乗し、ぬれ手に粟で大いに稼ぎまくった。さらに当然のこととしてこのリバイバルは戦後の部分にさかのぼっていったのである。〔古茂田他 (1995: p.14)、括弧内は引用者による〕

 以上から分かることは、コロムビア社から発売された『日本歌謡史―懐かしの歌のアルバム』という、戦前のSP盤音源を復刻したレコードがきっか けとなっ て、各社あいついで同様の復刻盤が発売されるようになったという事実である。もっとも、森本(2003)では、これがきっかけとなってリバイバ ル・ブーム が起こったのだというような記述のされ方となっているが、『日本歌謡史―懐かしの歌のアルバム』が発売されたのが昭和35(1960)年11月と いう、既 にリバイバル・ブームが起こっていた時期であることを考えると、当時のリバイバル・ブームに便乗する形でこれらのレコードは売れたのであろう。(39)
 さて、この節の冒頭で論者は「レコードはいつ頃から『なつメロ』ものを発売するようになったのであろうか」と書いたが、「『なつメロ』もの」の レコード を、論者は便宜上、以下の4種類に区分して考えている。@現代の歌手が昔の歌を、リズムを新しくして新たに吹き込んだもの Aもともとは歌い手の ある昔の 歌を、音楽伴奏だけで新たに編曲したもの B戦前等のSP盤を復刻したもの Cもともとその歌を最初に吹き込んだオリジナル歌手が新しく吹き込み 直したも の の4つである。では、この4つがそれぞれいつ頃から発売され始めたのかということを、ビクターとテイチクの総目録を参考にして以下に検討しよ う。
 まず、「『なつメロ』もの」のレコード全般について言えることは、これらの企画ものがよく出回るようになったのは、昭和30年代 (1955〜1964 年)のことであろうと言うことである。戦前や昭和20年代(1945〜1954年)にも、「『なつメロ』もの」のレコードが存在していたことは事 実である が、“昔”ということを意識したものが体系的に出回るようになったのは、昭和30年代(1955〜1964年)以降だと思われる。これは、LP盤 という、 片面に長時間の録音を収録可能にしたレコードが普及し出したことが背景として存在する。昭和20年代(1945〜1954年)以前のレコードは、 SP盤と いう、1分間に78回転で再生するものが主流であった。1分間に78回転という高速の回転数では、すぐに針が溝を回りきってしまい、長くても片面 には4分 程度しか録音が出来なかった。そこにLP盤という、1分間に331/3回転のレコードが登場し、片面に10分〜30分弱程度の録音が可能になっ た。 (40)LP盤によって、1枚のレコー ドに何曲 もの音楽 を収録することが出来るようになったことで、アルバム盤の制作が容易になり、1つの企画に沿ったレ コードが次々に登場するようになったのである。(41)当 然その企画の中には、「なつメロ」もの(リバイバルもの)も含まれていた。(42)
 @「現代の歌手が昔の歌を、リズムを新しくして新たに吹き込んだもの」は、シングル盤であるEP盤では、2−1−2で紹介したように、まさにリ バイバ ル・ブームによって、若手歌手が昭和30年代(1955〜1964年)から盛んにリバイバルしている。また、アルバム盤であるLP盤によっても、 『森繁久 弥 夜の詩集』(ビクター25cmLP、昭和34(1959)年5月)や『なつかしのリバイバル・メロディー集』(ビクター30cmLP、昭和 37 (1962)年1月)のように、若手歌手によってリバイバルされている。
 この若手歌手がリバイバルするというレコードは、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームを迎えても、相変わらず発売されて いる。例 えば、『影を慕いて〜森進一』(ビクター30cmLP、昭和43(1968)年6月)、『影を慕いて/青江三奈』(ビクター30cmLP、昭和 47 (1972)年9月)、『橋幸夫/軍歌を唄う』(ビクター30cmLP、昭和48(1973)年9月)などである。また、この頃になると、戦前に デビュー したベテラン歌手によっても、自身がかつて吹き込んでいない「なつメロ」をリバイバルするものも出てくる。『「明治・大正流行歌史」上巻・下巻』 (歌唱: 東海林太郎、ビクター30cmLP、昭和42(1967)年12月)、『婦人従軍歌/渡辺はま子の戦時歌謡』(ビクター30cmLP、昭和46 (1971)年7月)、『明治一代女/市丸』(ビクター30cmLP、昭和47(1972)年1月)などである。
 A「もともとは歌い手のある昔の歌を、音楽伴奏だけで新たに編曲したもの」も、LP盤によって昭和30年代前半(1955〜1959年)から盛 んに発売 されている。それらは、『大村能章ヒット・メロディー集』(ビクター25cmLP、昭和35(1960)年1月)や『ヒット・メロディ・ギター 集〜ギター と歌おう』(ビクター25cmLP、昭和35(1960)年10月)、『懐しの軍歌集』(ビクター30cmLP、昭和37(1962)年1月)、 『バッ キー白片の“古賀メロディー・アルバム”』(テイチク30cmLP、昭和38(1963)年1月)のように、主に軽音楽として発売されている。昭 和40年 代(1965〜1974年)に入ると、従来の洋楽器伴奏によるものだけでなく、『琴と三味線による軍歌集1(日清・日露戦争篇)』(ビクター 30cmLP、昭和41(1966)年5月)や『大正琴のすべて“想い出の歌謡全集”VOL1〜2』(テイチク30cmLP、昭和 43(1968)年1 月)のように、和楽器伴奏によるものも出てくるようになる。
 B「戦前等のSP盤を復刻したもの」は、先に引用した森本(2003)や古茂田他(1995)から、その先駆は、昭和35(1960)年11月 にコロム ビアから発売された『日本歌謡史―懐かしの歌のアルバム』であろう。ビクターとテイチクの総目録でも、『日本流行歌史 第1集〜第3集』(ビク ター 30cmLP、昭和36(1961)年12月)、『歌は世につれ テイチク30年の歩み 第1集〜第2集』(テイチク30cmLP、昭和 36(1961) 年4月)と、最初に発売されているのは、コロムビアの『日本歌謡史―懐かしの歌のアルバム』の直後であることが見てとれる。この後、『懐しの軍 歌・軍国歌 謡 第1集〜第2集』(ビクター30cmLP、昭和37(1962)年10月)、『日本映画主題歌全集』(ビクター30cmLP、昭和 37(1962)年 12月)のように、続々とSP盤復刻のLP盤が発売されている。また、『ディック・ミネ懐かしの歌声(ジャズ篇)』(テイチク25cmLP、昭和 33 (1958)年12月)や、『灰田勝彦ヒット・メロディー集』(ビクター30cmLP、昭和37(1962)年4月)のように、個人の全集ものも この頃か ら発売されている。もっとも、この頃のものは、『三浦洸一オール・ヒット曲集』や『松島アキラ オール・ヒット曲集』などのように、若手〜中堅歌 手も同様 のアルバム盤が発売されており、あくまでも現役のベテラン歌手のものとしての位置付けであったと言える。  昭和40年代(1965〜1974年)の半ばになり、「なつメロ」ブームが始まると、現役のベテラン歌手だけでなく、既に亡くなったり現役を既 に引退し た歌手の復刻ものも登場するようになり、種類も一気に増える。例えば、『君恋し/二村定一』、『侍ニッポン/徳山l』(共にビクター 17cmLP、昭和 45(1970)年1月)、『美ち奴 “想い出のヒット集”』(テイチク30cmLP、昭和43年(1968)9月)、『オリジナル盤による 小 野巡 懐 かしの歌声』(テイチク30cmLP、昭和46(1971)年5月)、『楠木繁夫“懐かしの歌声”(一)(二)』(テイチク30cmLP、昭和 45 (1970)年9月)などである。
 C「もともとその歌を最初に吹き込んだオリジナル歌手が新しく吹き込み直したもの」で、戦前にデビューしたベテラン歌手のアルバム盤は、「想い 出のアル バム〜渡辺はま子リサイタル〜」(ビクター25cmLP、昭和36(1961)年2月)のように、昭和30年代(1955〜1964年)の半ば頃 から発売 されているが、数は少ない。そして、これもB同様、若手〜中堅歌手も同様のアルバム盤が発売されており、あくまでも現役のベテラン歌手のものとし ての位置 付けであったと言える。
 昭和40年代(1965〜1974年)の半ばになり、「なつメロ」ブームが始まると、この手のアルバム盤は増えてくる。『ステレオによる日本の 流行歌  第1集〜第8集』(ビクター30cmLP、昭和47(1972)年3〜5月)、『豪華盤 灰田勝彦 デラックス』(ビクター30cmLP、昭和 48 (1973)年4月)、『<ベスト20デラックス>東海林太郎』(テイチク30cmLP、昭和47(1972)年11月)などである。また、@と Cが混合 する形で、中堅〜ベテラン歌手が吹き込んでいるアルバムものも登場する。『<ベスト20デラックス>ゴールデン・スターが歌う昭和歌謡史 第一 集〜第五 集』(テイチク30cmLP、昭和48(1973)年11月)、『<PR16シリーズ>ゴールデンスターによる昭和歌謡40年の歩み 第1巻〜第 5巻』 (テイチク30cmLP、昭和49(1974)年11月)などである。(43)

2−1−4 有線放送
 小川博司は、1960年代の「なつメロ」の普及に関して、「ラジオ、レコード、そして当時急速に普及しつつあった有線放送を主要なメディアとし ていた」 (小川〔1989:p.37〕)と述べている。では、有線放送は、昭和30年代(1955〜1964年)のリバイバル・ブームや、昭和40年代 (1965〜1974年)の「なつメロ」ブームに対してどのような役割を果したのであろうか。
 ここで言う「有線放送」とは、有線ラジオ放送のことであり、有線電気通信設備を用いての音楽放送のことである。主な事業者は、現在の「株式会社 USEN」と「キャンシステム株式会社」の2つである。「株式会社 USEN」は、昭和36(1961)年6月に「大阪有線放送社」として個人創業、2チャンネルの有線音楽放送を開始し、3年後の昭和 39(1964)年9 月に株式会社に改組している。「キャンシステム株式会社」は、昭和37(1962)年に創業、株式会社の設立は昭和40(1965)年3月であ り、関東地 区周辺から全国展開に到った。
 有線音楽放送は、ジューク・ボックスやレコード、ラジオ番組など、他の音楽メディアと比べ、当初から利用者の年齢層が相対的に高くなっていた し、創業時 期を考慮しても、小川が述べているように、昭和30年代(1955〜1964年)のリバイバル・ブームや、昭和40年代(1965〜1974年) の「なつ メロ」ブームに影響を与えていたことは間違いないであろう。
 しかしながら、今回の論文では、有線放送に関しては踏み込むことが出来なかった。先行研究にこれと言ったものがなく、調査方法が分からなかった というこ とも原因の1つである。有線放送の年ごとのリクエスト曲ランキングで、どのような曲が入っているかといったことが分かればあるいはとも思ったが、 両社に問 い合わせてみても良い返事は返ってこなかった。伊藤・久慈(1981)では、それらの情報が含まれていると思われる、『有線リクエスト歌謡集』 (協楽社、 1978)という文献がリストに挙げられているが、そのような書籍は全国の図書館には所蔵が確認できなかった。また、『オリコン年鑑』の前身であ る『コン フィデンス年鑑』にも、その年の有線放送のリクエスト曲ランキングが記載されているが、こちらも全国の図書館には昭和46(1971)年以降のも のしか所 蔵されておらず、役に立ちそうになかった。有線放送に関しては、今後の課題としたい。

2−1−5 当時の世相との関連性
 池田(1985)には、以下の様な記述がある。

 敗戦後の日本は過去との断絶を時代の貌としてきたが、27〜28年頃から過去との対決を改めて凝視することを主題とし はじめ た。読売新聞は26年秋に、「逆コース」と題するルポを連載、「軍艦マーチ」「女剣劇」「時代劇の復活」「伊勢神宮への関心」などをとりあげ て話題をよん だ。
 講和=独立という事実が醸成した反米思想は、ひとつは基地反対闘争となり、ひとつは皇室、神社、社会、風俗に対するムード的復古調として現 れた。(中 略)それらの底流にあるものは、単に戦前への回帰や国家主義への讃美ではなく、むしろ戦争期の悲惨な過去を誠実に描写しながら、そうした過去 の流れの中で 生きた個人の善意を再確認しようとするものだった。〔池田(1985:p.300)〕

 日本は、昭和24(1949)年以降のGHQの対日占領政策の転換による影響が伴って保守勢力の勢いが増し、「逆コース」と呼ばれる、日本の民 主化・非 軍 事化に逆行する政治・社会・風俗の動きが発生した。具体的には、共産党や労働組合への取り締まり・弾圧、朝鮮戦争の勃発に伴う日本の再軍備化、破 壊活動防 止法の公布や独占禁止法の改正、警察法の改正などである。その下で、世相も復古的な動きを見せたとされるが、昭和20年代(1945〜1954 年)におい ての「なつメロ」カテゴリーの成立や、昭和30年代(1955〜1964年)のリバイバル・ブームは、どのように捉えていけばよいのであろうか。
 大串(2004)によると、昭和24(1949)年ごろから「逆コース」の流れの中で、風俗の次元で急速なアメリカ化が進展した。音楽の世界で それを考 えてみると、昭和27(1952)年〜28(1953)年にかけてのジャズ・ブームや昭和30年代(1955〜1964年)のロカビリーブームが 挙げられ るだろう。一方で、「安定ムードの中で過去をふり返って自分自身を検証し、将来に向けて自分が何者であるかを問うとき、ひとつはアメリカ型風俗へ の傾斜が あるとしても、一方の極には日本的伝統への回帰、戦前的価値の再確認があったとしても不思議はない。そして、アダルト層にとっては、この時期の第 二の混乱 期は後者への志向を強める結果となった」と池田(1985:pp.341-342)が述べているように、急速なアメリカ化の対極として復古的な流 れも生ま れ、それが昭和20年代(1945〜1954年)においての「なつメロ」カテゴリーの成立や、昭和30年代(1955〜1964年)のリバイバ ル・ブーム に繋がっていったのであろう。(44)
 論者の力量不足により、今回はこの程度しか当時の時代と絡めて論じることは出来なかったが、「なつメロ」カテゴリーの成立とリバイバル・ブーム を当時の 時代背景と絡めて考察していくことは、今後の課題としたい。

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