2−2 「なつメロ」ブーム前夜
 この節では、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブーム前夜の様子を、当時のテレビの普及と流行歌の変質に言及した上で、これ らのこと が「なつメロ」ブームに繋がっていったということを見ていきたいと思う。

2−2−1「なつメロ」ブーム前夜におけるテレビの普及とその見られ方
 評論家の大宅壮一が、テレビの低俗化を嘆いて「一億総白痴化」という言葉を生み出したのは昭和32(1957)年のことであったが、テレビの一 般家庭へ の普及が急速な勢いで進んでいったのは、まさにその昭和30年代(1955〜1964年)であった。日本でテレビが本放送を開始したのは、昭和 28 (1953)年2月1日のNHK、民放では同年の8月28日であり、NHK本放送開始時のテレビ受信契約数は866に過ぎなかったのが、昭和30 (1955)年10月に10万、昭和32(1957)年6月に50万、昭和33(1958)年5月に100万、昭和35(1960)年8月に 500万、昭 和37(1962)年3月に1000万、昭和38(1963)年12月に1500万、昭和42(1967)年12月に2000万を突破した。(45)世帯 普及率は、昭和30(1955)年度に0.9%だったのが、昭和31(1956)年度には2.3%、昭和32(1957)年度には5.1%、昭和 33 (1958)年度には11.0%、昭和34(1959)年度に23.1%、昭和35(1960)年度には33.2%、昭和36(1961)年度に は 49.5%、昭和37(1962)年度には64.8%、昭和38(1963)年度には75.9%、昭和39(1964)年度には83.0%と、特 に昭和 30年代の後半(1960〜1964年)にかけてテレビの普及が著しく進んだことが分かる。(46)ここで、当時の日本のテレビの普及がいかに驚異的なも のであったかを示す記事があるので、以下に引用する。

 わが国のテレビ普及過程にみる大きな特色としてまずあげるべきは、それが、きわめて短期間における急速な展開で あったこ とである
 日本のテレビは昭和二八年二月、契約数八六六をもってスタートした。そして九年後の三七年三月には一、〇〇〇万を突破して、アメリカ、イギ リスにつぐ世 界第三位のテレビ保有国となり、(中略)いまや日本は、テレビ所有数においてアメリカの使用台数七、八〇〇万をトップに世界第二位を占め、三 位(イギリス 一、五〇〇万)以下を大きくひきはなしている。
 ところで一口に二、〇〇〇万というが、これは近々わずか一五年の年輪が刻んだものであった。しかも、アメリカやイギリスが大戦前からすでに テレビ放送を 始めていた歴史を思いあわせると、わが国が戦後短日月のうちに飛躍的発展をみせたテレビの普及は、ロンドン・エコノミスト編「驚くべき日本」 の紹介をまつ までもなく、まさに、驚異的な現象であったといわねばなるまい。
 さらにまた、同じく電波媒体であるラジオの、わが国における普及進度とくらべても、テレビの伸長は当初の二、三年を別にしてすこぶる急激な ものであっ た。つまりラジオの単独契約時代にあって最高を示したのは三三年末の一、四六〇万であったが、そこに達するまでにはラジオは放送開始以来三四 年を要した。 もちろん敗戦時の混乱による契約数の下降があったし、またラジオとテレビが発展した時代的背景が違うにせよ、テレビは一、四六〇万と同じ契約 数を、わずか 一〇年半で達成したのである。
 第二の特色は、おりからの高度経済成長に裏づけられながらも、一面に おいて国民生 活全般のアンバランスの上に、背伸びしながら、めざましい躍進をつづけたことである
 テレビ契約数が一、〇〇〇万台に達した三七年当時の統計資料によれば、一国の経済規模の総体的な指標である国民所得において、わが国は世界 で第五位を占 め、粗鋼、セメント、電力など基幹産業の生産量も第三位にランクされるにいたった。なかでもテレビの生産規模は、アメリカを一〇〇とした場 合、日本は七 六・五の割合となり、第三位以下をはるかに凌駕する有様であった。しかしながら、他方生産規模以外の生活水準を示す多くの指標において、わが 国の水準は国 際的にはまだまだ低位にあり、一人あたりの国民所得では、西ドイツの四〇%にもおよばなかった。しかもそれでいて、テレビの普及がとりわけきわだっていたことは、やはり奇異ともみら れる現象であっ たといわねばならない
 当時の『国民生活白書』(三七年版)は、「わが国の生活は、テレビなど家庭用電化製品に関しては一流国、被服については二流国の域に達した が、生活環境 施設に関しては等外国といわれるほどに、両者の生活はアンバランスである」といい、また『経済白書』(38年版)も同様の指摘を繰りかえして いる。
 第三に、わが国におけるテレビ普及の特色として、契約数の飛躍的増大もさることながら、日本人のテレビ接触時間量や視聴行動において、欧米諸国にくらべかなり顕著な差 があるこ とは、これまで数多くの調査結果や、われわれ自身の日常経験をかえりみて明らかであろう。
 筆者がかつて滞在したミュンヘンの下宿先のテレビがおかれていた場所は、茶の間ではなく夫妻の寝室であったし、社交や観劇などにまめな彼ら がテレビに接 するのは、就寝前のわずかな時間に限られているようであった。クリスマス・イブをむかえた時、夜のいわゆるゴールデン・アワーに、<休止時 間>のあったこ とも大きな驚きであった。テレビばかりが彼らの生活を占めているわけでないことを、あらためて見せつけられた思いであった。
 “一億総所有化”を迎えた日本人は、みずからがその渦中にいることで、わが国におけるテレビ普及の特異性を特異なものとして意識することが 案外少ないの ではあるまいか。〔山本(1969:pp.7-8)、太字は引用者による〕

 当時の日本の驚異的なテレビの普及のあり様が、この記事からもよく伺える。若干以下に補足事項を書いておこう。まず、日本におけるラジオの普及 率の推移 は、大正13(1924)年に放送が開始してから普及率が10%に達したのは昭和7(1932)年度、20%に達したのは昭和11(1936)年 度、 30%に達したのは昭和14(1939)年度、40%に達したのは昭和16(1941)年度、50%に達したのは昭和19(1944)年度、その 後戦争の 影響で昭和20(1945)年度には40%を一旦下回るが、昭和27(1952)年度に60%に達し、翌昭和28(1953)年度に70%に達 し、昭和 32(1957)年度に80%に達している。(47)こ のデータと照らし合わせてみても、昭和30年代後半(1960〜1964年)のテレビの普及の進み 具合がいかに急速なものであったかが分かる。次に、日本の1人当たりGDPの推移であるが、昭和35(1960)年の段階では477ドルであり、 1位アメ リカの2843ドルの6分の1にしか満たない。確かに、上記記事でも述べられているように、当時の日本では、高度経済成長の中にありながらも、テ レビの普 及に他の生活水準が十分に追いついていないことが裏づけされている。(48)
 「日本人のテレビ接触時間量や視聴行動において、欧米諸国にくらべかなり顕著な差がある」という点に関しては、詳しく述べていこう。NHKによ る昭和 42(1967)年6月の聴視率調査によると、テレビ所有者のうち、1日にテレビを少しでも見た人は、以下の図1のように、どの曜日でも90%を 越えてい る。時間帯別に見ると、図1及び以下の図2のように、朝や昼のピークに比べ、夜のピークの接触率が、平日・日曜ともに際立って高くなっていること が分か る。では、当時の人々は、テレビ、特に夜間のテレビに何を求めていたのであろうか。このことを考察するに当たっては、藤原(1967)が示唆に富 んでい る。
図 1(「テ レビへの接触率」,〔本田(1967:p.2)〕中の図による)
図2(「30分ごとのテレビへの接触率」, 〔本田 (1967:p.3)〕中の図による)

 藤原(1967)では、まず、当時の人々が夜の時間をどのように使っているのかを調べるために、昭和40(1965)年10月に実施された「国 民生活時 間調査」の結果を用いている。藤原は、人々の生活行動を、「義務的な行動」、「余暇的な行動」、「睡眠」の3つに分けた上で、月曜日〜金曜日の平 日におい ては、午前(6時〜12時)や午後(12時〜18時)よりも夜間(18時〜24時)に、「余暇的な行動」に人々が費やす時間量が最も多いことを明 らかに し、また、夜間とその他の時間帯との「余暇的な行動」の質的な違いも認めている。つまり、午前6時30分〜8時30分の2時間の中での「余暇的な 行動」 は、「『義務的な行動』に移る直前の時間であり、また、『余暇的な行動』に費やされる1人あたりの平均時間量も30分程度にすぎないから、この時 間帯にお ける『余暇的な行動』は、心理的には、落着いた・腰をすえた・解放感のある・楽しい気分といったものとはあまり深くはつながらない」。正午〜13 時30分 の1時間30分は、「いわゆる『休憩時間』という性格をもっているとい」え、「大部分の人びとにとっては、『義務的な行動』の谷間にある『休憩時 間』以上 のものではない」。これに対して、18時以降、つまり夜間における「余暇的な行動」は、「人びとがその行動に費やす時間量がかなり多く、また、一 般には、 十分に解放された・自由な行動という基本的な性格をもっているといえ」る。以上から、「一日24時間の中で、一般の人びとが『余暇時間(自由時 間)』とし て意識するのは、休日では、当然、全日であるが、平日では、『夜間』であるということにな」り、「『夜』という時間が、一般の人びとにとっては、 休日とと もに『余暇時間』の典型として認識されているということを意味している」と結論付けている。〔藤原(1967:p.20)〕
 藤原は次に、テレビというマス・メディアが人々にとってどのような存在なのかということを、昭和38(1963)年3月と39(1964)年3 月に東京 都23区の20歳以上の成人を対象として実施した「テレビ機能・特徴調査」の結果を用いて分析している。この結果から、@テレビの「娯楽性」とい う機能・ 特徴について、極めて多くの人々が認めており、「一家団らんの機会をつくる」という機能・特徴を認める人も多くなっている。A「余暇時間」にテレ ビを見よ うと思う人及び実際に見る人はかなり多い。Bテレビを見ることが出来なくなった時、「さびしい」「もの足りない」と感じる人が著しく多い、という 3つのこ とが挙げられている。要するに、機能的にも心理的にも、テレビが当時の人々の日常生活に極めて密着していたという事実が浮かび上がるのである。(49)
 そして、藤原は、夜のテレビ視聴行動が人々にとってどのような意味を持っているのかということを述べている。ここでは、昭和42(1967)年 6月に実 施された「聴視率調査」の結果から作成された以下の3つの図表を紹介したい。図3、表1、図4からは、「音楽」、「ドラマ」、「音楽・ドラマ以外 の娯 楽」、「スポーツ」と、夜間に視聴されているのは娯楽的な番組に集中しているということがよく分かる。藤原は、夜間だけにテレビを見る人は少ない という点 も踏まえた上で、「一般の人びとが、『夜間』と『その他の時間帯』を使い分けている(あるいは、『夜間』以外の時間帯のテレビを利用する方法を身 につけて いる)ことは明らかであ」り、「『夜のテレビ視聴』にあらわれた、人びとの中核的な・身についているテレビ観は、『楽しいもの』・『一家団らんの 機会をつ くるもの』といったテレビの娯楽的機能への認識であり、教養性・実用性などの機能への認識は、大部分の人びとにとっては、『教育・教養』番組と直 接結びつ くのではなく、『報道』番組や『ドラマ』番組の中に含まれているものと結びつく副次的なものだということができよう」と述べている。〔藤原 (1967: p.26)〕この点は、昭和42(1967)年6月の「聴視率調査」に合わせて実施された「意向調査」による、以下の図5からも確証が得られるで あろう。
図 3(「午 前・午後との夜間の種目別接触率の比較」,〔藤原(1967:p.25)〕中の図による)
表1(「テレビ全局合計種目別平均視聴 率」,〔藤原 (1967:p.25)〕中の図による)
図4(「午前・午後との夜間の種目別視聴時間 量の比較」, 〔藤原(1967:p.25)〕中の図による)
図5(「夜のテレビ視聴理由―1」,〔藤原 (1967: p.26)〕中の図による)


2−2−2 流行歌の変質
 小川(1989)は、「ポピュラー音楽は、人々の価値観の多様化に対応して、分化した。もはや全国民的な幅広い支持を受ける流行歌は成りたたな くなっ た。一九六五年秋にTBS系列で始まった『歌謡曲ベストテン』以後、各局で同種の番組が始まり、テレビを中心にしたヒット曲作りが本格化した。若 手歌手を 中心にした同種の番組が毎日のように流されるため、一曲の流行周期は短期化し、ファン層は低年齢化していった。この内容と流行周期に追いついてい けない中 高年齢層がすがりついたのが、『なつかしのメロディー』と演歌である。」と述べている。〔小川(1989:p.37)〕果たして、本当にこの時期 に流行歌 の一曲の流行周期の短期化と、ファン層の低年齢化は起こったのであろうか。

2−2−2−1 「歌謡曲嗜好と流行」より
 まず、民放五社調査研究会編『続・日本の視聴者』(1969)に収録されている「歌謡曲嗜好と流行」という論文を見てみよう。同論文では、「歌 謡曲の最 大の特性は、流行歌だということである」とした上で、「歌謡曲は大量生産、大量消費の産業となっている」と、当時の現状を述べている。ここでは、 歌謡曲は 流行歌と同義で用いられているといって良いであろう。(50)同 論文で用いられている資料は、昭和41(1966)年〜43(1968)年上半期の各週ご とに行なったヒット曲調査とでも呼ぶもので、「レコードの売り上げ」、「有線放送」及び「ジューク・ボックス」へのリクエスト数、テレビ局に寄せ られる 「ハガキ投票」の順位をそれぞれまとめたものである。まず、これら4つを総合して、年ごとのベスト10を示したのが、次の表2である。同論文によ ると、1 年間に新譜として発売される流行歌は、EP盤で昭和41(1966)年が1200曲余り、42(1967)年が1300曲余りであったが、そのう ち、ベス ト10に入れるのは年に60曲ほど、1週でも1位になれるのは、表2に挙げた10曲ほどしかないという。さらに、2ヶ月以上引き続いてトップの人 気を保て る曲にいたっては、昭和41(1966)年が「夢は夜ひらく」「君といつまでも」、42(1967)年が「真赤な太陽」「君こそわが命」、43 (1968)年上半期が「恋のしずく」と、年に2曲だけであるとのことである。さらに、流行歌の流行周期を総合的にグラフ化したものが、図6であ る。これ は、昭和41(1966)年〜42(1967)年に、1位を得たことのある14曲について、ベスト30に入ってから1位になるまで、及びその後下 降してい く様子を示したものである。「流行の期間をベスト一〇以内にランクされている週間数ではかれば、一五・七週、ベスト三〇以内にランクされている期 間は二九 週、トップにあるものは四・四週である。つまり、平均的にみると、ヒット曲の流行の寿命は約半年、流行期は三〜四カ月、最盛期は一カ月くらいとい うことに なる。これは大ヒット曲のばあいで、まあまあはやったという程度の五〇曲ほどについてみると、流行のサイクルは半分以下に短縮してしまう。」と、 同論文は 説明する。〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:pp.151-152)〕この流行周期の推移の変化を年代別に比較できるのが最善ではあるが、同論 文では、 「『芸者ワルツ』は二七年の曲だが、三〇年の初めごろまで流行は衰えなかった。また『お富さん』は二九年の八月に出て、大流行をつづけ、一〇年後 にもレ コードは売れていたという。ごくまれな例だが、それにしても、かつて、流行の期間はかなり長かった。その後、テレビの出現、レコード産業の発達、 ポピュ ラー・ソングやニュー・リズムの流入などによって、この世界も悠長ではいられなくなった。嗜好は分化し、多様化しているのだ。」と、この論者の実 感が語ら れていることは注目に値する。〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:p.151)〕
図 6(「歌 謡曲流行の周期」,『続・日本の視聴者』p.151の図による)
表2(「年度別ヒット曲ベスト10」, 『続・日本の視 聴者』p.148の表による)

 以上は「レコードの売り上げ」、「有線放送へのリクエスト数」、「ジューク・ボックスへのリクエスト数」、テレビ局に寄せられる「ハガキ投票」 の順位の 4つを総合的にまとめたものであったが、次に分野別に見ていくことにしよう。まず、分野別の順位は以下の表3の通りである。これは昭和 42(1967)年 のものであるが、総合と合わせた5つの分野全てにランクインしているのは、「真赤な太陽」の1曲だけであり、4分野に入っているのは3曲だけ、3 分野でも 4曲だけであることが分かる。この、分野による順位の大幅な違いに関して、同論文では、「支持層の平均年齢は、ハガキ投票がもっとも若く、レコー ド購入者 とジューク・ボックスが同じくらいでこれに次ぎ、有線放送がもっとも高い。これが、分野による流行のタイプのちがいを生んでいるとみられる。」 と、世代の 違いによるものだと説明している。〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:p.150)〕具体的には、「ハガキ投票」の年齢分布は、昭和 43(1968)年1 月の調べで、小学生:10.6%、中学生:36.8%、16〜19歳:34.1%、20代:11.3%、30歳以上:2.9%、不明:4.6%で あり、年 齢を1歳刻みで追っていくと、15歳がピークになるとのことである。「流行のリーダーと目されるレコード購入者は、九割近くが一〇代の後半から二 〇代前半 の層で占められる。ジューク・ボックスの設置場所は、スナック、レストラン、バー、喫茶店などが多いが、それでもリクエスト客の六割以上は、この 年代で占 められている、という。有線放送は、設置場所の性格からいって、きき手はもっと高年層にまで広がる」〔「歌謡曲嗜好と流行」 (1969:pp.156- 157)〕(51)以 下の図7は、分野別の流行 歌の周期 であり、4つの分野全てで昭和42(1967)年に週間ベスト10に入ったことのある20曲をプ ロットしたものであるが、もっとも年齢層が若いとされる「ハガキ投票」において、流行周期が特に短いのが見てとれる。

表 3(「分 野別にみたヒット歌謡曲ベスト10(42年)」,『続・日本の視聴者』p.148の表による)
図7「流行歌の波及過程」,『続・日本の視聴 者』 p.154の図による)

 このように、当時の流行歌が年齢層によってはっきりと分化している事態が明らかになったが、テレビの歌謡曲番組を支持する年齢層がここ数年で若 返りを見 せている、という言及も同論文ではなされている。「ハガキ投票」の年齢分布が、昭和43(1968)年1月の調べでは、15歳がピークになってい るとの指 摘は先ほど述べたが、昭和「四〇年の調べでは、ピークが16〜20歳の間にあったから、三年間で三、四歳は若くなったことになる」と書かれてい る。〔「歌 謡曲嗜好と流行」(1969:p.157)〕テレビの歌謡曲番組に対する嗜好調査に関しても、4、5年前と比べて「一五〜二四歳の層にとくに厚く なってき ている」〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:p.158)〕ともある。(52)最後に、ファン層の低年齢化に関しての同論文の分析を引用しよう。

 このようなファンの若返りには、歌謡曲自身の変化が底流になっている。エレキ・ブーム、フォーク・ソング、アングラ・ ミュー ジック、グループ・サウンズなどの波をかぶって、歌謡曲がポピュラー音楽と同化しているのが現状だ。両者の区別はつけがたくなり、かつてのポ ピュラー音楽 ファンが歌謡曲に吸収されつつある。四一〜二年に、演歌調が後退し、和製ポップスが台頭してきたことに、その変化が読みとれる。
 しかし、いっぽうでは有線放送に演歌を求める三〇代以上のファンがいることも見逃せない。ファンが分化し、歌謡曲自身も多様化していく。そ んな状況が進 行していることも事実であろう。〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:p.158)〕(53)


2−2−2−2 他の論者の指摘
 先に挙げた「歌謡曲嗜好と流行」(1969)は、昭和41(1966)年〜43(1968)年をベースにして書かれたものであるが、昭和44 (1969)年に書かれた園部(1969)にしても、昭和46(1971)年に書かれた加太(1971)にしても、この頃に起こった流行歌の変質 に関し て、同様のことを述べている。まず、園部(1969)を以下に引用しよう。

 その変化動揺について第一にいわれていることは、この二、三年来、流行歌の愛好家層の八〇%が、十六、七才から二〇才 代までの 青少年になったということである。ただしこの場合の流行歌は、一般にいわれている艶歌調(演歌調という人もある)歌謡曲やポップス歌謡、民謡 などもふくむ もので、きわめて広い意味での流行歌曲のことらしいから、これらの内訳を分類すると、はたして同じ数字が出るかどうかは問題である。
 しかし、ともかく、重要なことは、ティーンエージャーが、かつてはおとなだけの世界であった流行歌市場に、堂々と、しかもおとなをしのぐ勢 いで登場した ことである。こういう事情は、当然、レコードの売れ方やTVやラジオ放送にも影響を与えるし、したがって、それらの内容にもおよんでくるわけ である。〔園 部(1969:p.12)、太字は引用者による〕

 ここで注目すべきは、「歌謡曲嗜好と流行」(1969)でも、同時期に書かれたこの園部(1969)においても、流行 歌のファ ン層が低年齢化したのはここ数年であるという記述がなされている点である。それでは、ファン層が低年齢化したことにより、流行歌の世界にどの ような変化が 訪れたのであろうか。この点に関して園部は、「おとなたちが、かつて経験しなかった外国歌曲、しかも歌曲だけでなく外国調のあらゆる音楽を耳 にして育っ」 た「いまの若者たち」の「大量登場によって、ポップス歌謡、フォーク歌謡のたぐいが、ぐんぐんと率を高めはじめ」たことを第一に挙げている。 具体的には、 今まで「日本流行歌の主流をなしてきた、日本調歌謡曲に対する外国調歌謡曲の増加ということである」。もっとも、「ここでいう外国調とは、あ くまで日本調 に対する外国調歌曲の増加ということである」。〔園部(1969:p.13)〕第二の変化は、「大正年代以来今日まで、日本の流行歌の主流を なしてきた、 艶歌系歌謡曲そのものにも、音楽上の変化がこの数年来徐々に生まれてきている」ことである。〔園部(1969:p.14)〕

 次に、加太(1971)を引用しよう。

 昭和初期も戦争中も、戦後も昭和三十七年頃までは、街をあるいていると、今どんな歌が流行しているかわかった。若い男 がそのと きの流行歌を口ずさみながらいくのに、しばしば出合った(ママ)からである。東京 オリンピッ クがあった昭 和三十九年頃からそれが非常に少なくなり、今はほとんどない。(中略)今は多くの階層を巻きこんでうたわれる流行歌はない。
 流行期間も今よりずっと長かった。(中略)大体のところ、流行歌は一年間ぐらいうたいつづけられるのが当り前だった。それが、昭和三十八、 九年頃から突 然、長くて三ヵ月、短いと一ヵ月くらいで、流行歌はわすれられて次の歌に代るようになった。
 うたうほうの若い大衆層があきっぽくなったからではない。あとから、あとから、新しい歌謡曲が作られて宣伝されるからである。(中略)こん なにたくさん の歌謡曲を提供されたのでは、日本の若者はその多種多様さに圧倒されてしまう。みんなが同じ歌を歌うことなどとてもできない。(中略)仮り に、気に入った 歌があってうたいつづけたとしても、その歌が流行しないうちに、次の歌の宣伝が押しよせてくる。宣伝されるままに、一ヵ月ほどうたった歌は捨 てて、新しい 歌をうたうことになる。
 そんなわけで、多くの人があちらでもこちらでもうたっている、というような流行現象はなくなった。また、たとえ、ある種の階層で流行したに せよ、その歌 は、すぐにその階層向きの新らしい歌にとって代られるから、流行期間も短くなる。
 こういう現状は、歌謡曲を作る側に影響する。どうせ、かつての流行歌のような全国的な規模での流行が望めないなら、また、たとえ流行したと しても一、 二ヶ月しかうたいつづけられないのなら、ある階層へ向けて、ちょっと気に入ってもらえる個所を作って、そこの魅力で売りこめばいい。それで、 けっこう商売 になる。というわけで、お座なりの作詞作曲で、質よりも量という態度で製作することになる。そういう作る側での現象が、実は、東京オリンピッ ク以後の昭和 四十年頃から、今日までつづいているのである。(中略)
 レコード会社は歌手も歌も使い捨てで、たくさんの歌を毎月発表するようになった。そうなると、どれが当るのやら、作る側にもはっきりした判 定がつかな い。
 それで、へたな鉄砲でも数うてば当るだろうと、ますます大量に作る。その結果は先に書いた流行の幅と期間をせばめ、それはまた作る側にはね 返ってくる。 それが、ここ数年の歌揺(ママ)曲の現象面としてのあらわれである。(加太こ うじ「理想喪失 ――流行しな い歌謡曲――」,『放送文化』昭和46(1971)年12月号,pp.14-16)

 加太(1971)も、昭和40(1965)年頃を境に、歌謡曲の流行周期が短くなった事態を指摘している。加太(1971)はこの後、歌謡曲の 流行周期 が短くなった原因として、「昭和十年代までの歌手」が自分なりの理想に燃えていて良心的であったのに対して、現在の歌謡界には商業主義がはびこっ ており、 金儲けのことしか考えていないということを主張し、それを嘆いている。「今日のような状態に歌謡曲が落ちこんだ」ことが、現在の「なつメロブーム となった 主因だと思われる」とまで言っている。「美しい感動的な歌詞、曲、歌唱がナツメロには、ひしひしと感じられるのである。」〔加太 (1971:p.16)〕 と。ここまで言い切ることには、この論者の私情が入り込んでいるとみなさざるを得ないが、少なくとも、昭和40年(1965年)前後を境として、 歌謡曲に 変質が訪れていたことは否定できない事実であろう。

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