わが国のテレビ普及過程にみる大きな特色としてまずあげるべきは、それが、きわめて短期間における急速な展開で あったこ とである。
日本のテレビは昭和二八年二月、契約数八六六をもってスタートした。そして九年後の三七年三月には一、〇〇〇万を突破して、アメリカ、イギ リスにつぐ世 界第三位のテレビ保有国となり、(中略)いまや日本は、テレビ所有数においてアメリカの使用台数七、八〇〇万をトップに世界第二位を占め、三 位(イギリス 一、五〇〇万)以下を大きくひきはなしている。
ところで一口に二、〇〇〇万というが、これは近々わずか一五年の年輪が刻んだものであった。しかも、アメリカやイギリスが大戦前からすでに テレビ放送を 始めていた歴史を思いあわせると、わが国が戦後短日月のうちに飛躍的発展をみせたテレビの普及は、ロンドン・エコノミスト編「驚くべき日本」 の紹介をまつ までもなく、まさに、驚異的な現象であったといわねばなるまい。
さらにまた、同じく電波媒体であるラジオの、わが国における普及進度とくらべても、テレビの伸長は当初の二、三年を別にしてすこぶる急激な ものであっ た。つまりラジオの単独契約時代にあって最高を示したのは三三年末の一、四六〇万であったが、そこに達するまでにはラジオは放送開始以来三四 年を要した。 もちろん敗戦時の混乱による契約数の下降があったし、またラジオとテレビが発展した時代的背景が違うにせよ、テレビは一、四六〇万と同じ契約 数を、わずか 一〇年半で達成したのである。
第二の特色は、おりからの高度経済成長に裏づけられながらも、一面に おいて国民生 活全般のアンバランスの上に、背伸びしながら、めざましい躍進をつづけたことである。
テレビ契約数が一、〇〇〇万台に達した三七年当時の統計資料によれば、一国の経済規模の総体的な指標である国民所得において、わが国は世界 で第五位を占 め、粗鋼、セメント、電力など基幹産業の生産量も第三位にランクされるにいたった。なかでもテレビの生産規模は、アメリカを一〇〇とした場 合、日本は七 六・五の割合となり、第三位以下をはるかに凌駕する有様であった。しかしながら、他方生産規模以外の生活水準を示す多くの指標において、わが 国の水準は国 際的にはまだまだ低位にあり、一人あたりの国民所得では、西ドイツの四〇%にもおよばなかった。しかもそれでいて、テレビの普及がとりわけきわだっていたことは、やはり奇異ともみら れる現象であっ たといわねばならない。
当時の『国民生活白書』(三七年版)は、「わが国の生活は、テレビなど家庭用電化製品に関しては一流国、被服については二流国の域に達した が、生活環境 施設に関しては等外国といわれるほどに、両者の生活はアンバランスである」といい、また『経済白書』(38年版)も同様の指摘を繰りかえして いる。
第三に、わが国におけるテレビ普及の特色として、契約数の飛躍的増大もさることながら、日本人のテレビ接触時間量や視聴行動において、欧米諸国にくらべかなり顕著な差 があるこ とは、これまで数多くの調査結果や、われわれ自身の日常経験をかえりみて明らかであろう。
筆者がかつて滞在したミュンヘンの下宿先のテレビがおかれていた場所は、茶の間ではなく夫妻の寝室であったし、社交や観劇などにまめな彼ら がテレビに接 するのは、就寝前のわずかな時間に限られているようであった。クリスマス・イブをむかえた時、夜のいわゆるゴールデン・アワーに、<休止時 間>のあったこ とも大きな驚きであった。テレビばかりが彼らの生活を占めているわけでないことを、あらためて見せつけられた思いであった。
“一億総所有化”を迎えた日本人は、みずからがその渦中にいることで、わが国におけるテレビ普及の特異性を特異なものとして意識することが 案外少ないの ではあるまいか。〔山本(1969:pp.7-8)、太字は引用者による〕
このようなファンの若返りには、歌謡曲自身の変化が底流になっている。エレキ・ブーム、フォーク・ソング、アングラ・ ミュー ジック、グループ・サウンズなどの波をかぶって、歌謡曲がポピュラー音楽と同化しているのが現状だ。両者の区別はつけがたくなり、かつてのポ ピュラー音楽 ファンが歌謡曲に吸収されつつある。四一〜二年に、演歌調が後退し、和製ポップスが台頭してきたことに、その変化が読みとれる。
しかし、いっぽうでは有線放送に演歌を求める三〇代以上のファンがいることも見逃せない。ファンが分化し、歌謡曲自身も多様化していく。そ んな状況が進 行していることも事実であろう。〔「歌謡曲嗜好と流行」(1969:p.158)〕(53)
その変化動揺について第一にいわれていることは、この二、三年来、流行歌の愛好家層の八〇%が、十六、七才から二〇才 代までの 青少年になったということである。ただしこの場合の流行歌は、一般にいわれている艶歌調(演歌調という人もある)歌謡曲やポップス歌謡、民謡 などもふくむ もので、きわめて広い意味での流行歌曲のことらしいから、これらの内訳を分類すると、はたして同じ数字が出るかどうかは問題である。
しかし、ともかく、重要なことは、ティーンエージャーが、かつてはおとなだけの世界であった流行歌市場に、堂々と、しかもおとなをしのぐ勢 いで登場した ことである。こういう事情は、当然、レコードの売れ方やTVやラジオ放送にも影響を与えるし、したがって、それらの内容にもおよんでくるわけ である。〔園 部(1969:p.12)、太字は引用者による〕
ここで注目すべきは、「歌謡曲嗜好と流行」(1969)でも、同時期に書かれたこの園部(1969)においても、流行 歌のファ ン層が低年齢化したのはここ数年であるという記述がなされている点である。それでは、ファン層が低年齢化したことにより、流行歌の世界にどの ような変化が 訪れたのであろうか。この点に関して園部は、「おとなたちが、かつて経験しなかった外国歌曲、しかも歌曲だけでなく外国調のあらゆる音楽を耳 にして育っ」 た「いまの若者たち」の「大量登場によって、ポップス歌謡、フォーク歌謡のたぐいが、ぐんぐんと率を高めはじめ」たことを第一に挙げている。 具体的には、 今まで「日本流行歌の主流をなしてきた、日本調歌謡曲に対する外国調歌謡曲の増加ということである」。もっとも、「ここでいう外国調とは、あ くまで日本調 に対する外国調歌曲の増加ということである」。〔園部(1969:p.13)〕第二の変化は、「大正年代以来今日まで、日本の流行歌の主流を なしてきた、 艶歌系歌謡曲そのものにも、音楽上の変化がこの数年来徐々に生まれてきている」ことである。〔園部(1969:p.14)〕
昭和初期も戦争中も、戦後も昭和三十七年頃までは、街をあるいていると、今どんな歌が流行しているかわかった。若い男 がそのと きの流行歌を口ずさみながらいくのに、しばしば出合った(ママ)からである。東京 オリンピッ クがあった昭 和三十九年頃からそれが非常に少なくなり、今はほとんどない。(中略)今は多くの階層を巻きこんでうたわれる流行歌はない。
流行期間も今よりずっと長かった。(中略)大体のところ、流行歌は一年間ぐらいうたいつづけられるのが当り前だった。それが、昭和三十八、 九年頃から突 然、長くて三ヵ月、短いと一ヵ月くらいで、流行歌はわすれられて次の歌に代るようになった。
うたうほうの若い大衆層があきっぽくなったからではない。あとから、あとから、新しい歌謡曲が作られて宣伝されるからである。(中略)こん なにたくさん の歌謡曲を提供されたのでは、日本の若者はその多種多様さに圧倒されてしまう。みんなが同じ歌を歌うことなどとてもできない。(中略)仮り に、気に入った 歌があってうたいつづけたとしても、その歌が流行しないうちに、次の歌の宣伝が押しよせてくる。宣伝されるままに、一ヵ月ほどうたった歌は捨 てて、新しい 歌をうたうことになる。
そんなわけで、多くの人があちらでもこちらでもうたっている、というような流行現象はなくなった。また、たとえ、ある種の階層で流行したに せよ、その歌 は、すぐにその階層向きの新らしい歌にとって代られるから、流行期間も短くなる。
こういう現状は、歌謡曲を作る側に影響する。どうせ、かつての流行歌のような全国的な規模での流行が望めないなら、また、たとえ流行したと しても一、 二ヶ月しかうたいつづけられないのなら、ある階層へ向けて、ちょっと気に入ってもらえる個所を作って、そこの魅力で売りこめばいい。それで、 けっこう商売 になる。というわけで、お座なりの作詞作曲で、質よりも量という態度で製作することになる。そういう作る側での現象が、実は、東京オリンピッ ク以後の昭和 四十年頃から、今日までつづいているのである。(中略)
レコード会社は歌手も歌も使い捨てで、たくさんの歌を毎月発表するようになった。そうなると、どれが当るのやら、作る側にもはっきりした判 定がつかな い。
それで、へたな鉄砲でも数うてば当るだろうと、ますます大量に作る。その結果は先に書いた流行の幅と期間をせばめ、それはまた作る側にはね 返ってくる。 それが、ここ数年の歌揺(ママ)曲の現象面としてのあらわれである。(加太こ うじ「理想喪失 ――流行しな い歌謡曲――」,『放送文化』昭和46(1971)年12月号,pp.14-16)