第3章 昭和40年代の「なつメロ」 ブーム

3−1 東京12チャンネルの経緯
 テレビ東京の前身である東京12チャンネルは、京浜地区最後のVHFテレビ局として昭和39(1964)年4月12日に開局した。東京12チャ ンネルが 開局に到るまでの経緯を以下に説明しよう。
 東京12チャンネルの開局から5年間の経営母体は、財団法人の日本科学技術振興財団であった。この財団は昭和35(1960)年4月に設立され たもので あるが、その背景には、前年の昭和34(1959)年に、時の科学技術庁長官であった中曽根康弘が音頭をとり、政・財・学の結集による科学技術振 興のため の結合体を作ろうと提案したことがある。また、おりから、日立製作所の70周年を期に、当時の同社社長であった倉田主税が10億円の金を投じて、 科学博物 館の設立構想を発表していたが、昭和35(1960)年3月、この倉田を会長として、両者の構想が一致し、財団が設立されたのである。財団の役員 メンバー には日本財界の首脳が豪華に並び、財団は、第一に科学技術館、第二に科学技術学園工業高校の運営にあたり、第三にテレビ局の運営によって、科学技 術の振興 にあたるという構想を練っていた。
 ところで、昭和35(1960)年当時、京浜地区のテレビ局には、NHKが第一(総合)と第三(教育)、第四は日本テレビ、第六が東京放送(現 在の TBS)、第八がフジテレビ、第十がNETテレビ(現在のテレビ朝日)と、NHK二局、民放が四局ひしめいていた。そこに、在日米軍が当時レー ダー用とし て使用しており、京浜地区最後のテレビ用電波といわれた、VHF波の第十二チャンネルが日本に返還されることになった。この第十二チャンネルを巡 り、次の 五者が使用願いを提出した。河野一郎のラジオ関東、中小企業政治連盟・鮎川義介の千代田テレビ、毎日新聞と日本私立大学連盟の松下正寿の中央教育 放送、東 京タワーの前田久吉の日本電波塔、そして科学技術振興財団の五者である。四者とも有力候補であったが、昭和37(1962)年11月13日、郵政 大臣より 科学技術振興財団に対して予備免許が下り、昭和39(1964)年4月12日の開局に到った。
 科学技術振興財団への免許条件は、科学技術教育番組が60%、一般教育番組が15%、教養・報道番組が25%という比率でテレビ番組を放送する ことで あったため、東京12チャンネルは科学技術教育専門局としてスタートした。特に、全国の企業で働く2万人の若年技術者に工業高校卒の資格を与える 通信制工 業高校講座を放送したことは、テレビ界初の大胆な試みであった。だが、東京12チャンネルは開局以来、苦しい経営を続けていくことになる。『テレ ビ東京 30年史』によると、「当初、テレビ協力会からの収入を月2億円、年間24億円として予算を計上していたが、結局、毎月数千万円の収入不足とな り、開局か ら1年を経て13億8000万円の赤字を計上した」〔テレビ東京30年史編纂委員会(1994:p.24)〕とある。これの「主な原因としては、 (イ)免 許条件(番組編成上の制約から、教育番組の比重が高く、スポンサーの獲得が難しかった)、(ロ)人員増と人件費増、(ハ)製作費をはじめ諸経費の 増加など である」と、同書にあるが、経営難の原因は何と言っても、開局当初に抱いていた、他の民放テレビ局のように営利追究を目的としないで科学局として 徹しよう という理想の高さと、大衆もそのうち理解するだろうと考えていた、目算の甘さにあったと言えよう。(54)当時の週刊新潮の記事による、「十二チャンネル は、もともと『振興財団』を母体に大手企業が『協力会』をつくり、『協力資金』を出し合って運営資金の大半をまかなうはずだったが、これが予定の 一割強し か集まらなかったのが、第一のつまずきという。こうなると、頼みの綱はスポンサーだが、今まで、オリンピック番組以外では、連続ドラマ『樅(も み)ノ木は 残った』の六lが、同局の最高視聴率といわれる。これでは、財団に義理立てするスポンサーにしても、“忍耐”の限度があろうというものだ。(中 略)いずれ にしても資金難の上に『教育的な番組を七五l以上』という免許許可条件のワクに縛られたのでは、すでに全国にネットワークを確立し終わった既存テ レビ局に 太刀打ちできる道理がない。」(55)と あるの が象徴的 である。昭和41(1966)年には負債が40数億円に膨らみ、倒産寸前となったため、同年の4月 4日以降、@社員の40%に当たる約200名の整理、A1日の放送時間を従来の16時間から5時間半に短縮、B科学技術番組の放送に徹し、営業活 動は一切 行なわない、という3つを3月の緊急理事会で決めた。結果、@200人の人員整理は労働組合が激しく反発するところとなり、社会的にも関心を集め る事件と なったが、結局全職員449人のうち183人が財団を去り、A平日は「通信制工業高校講座」を中心とした教育・教養番組と30分のニュースに限定 され、午 前10時〜11時30分までと、休止時間を挟んで17時〜21時までの延べ5時間半、日曜日は午前と午後は放送休止、夕方17時から4時間とい う、それま でに比べてわずか3分の1の放送時間に短縮された。この放送時間5時間半の時代は、翌昭和42(1967)年の3月まで1年間続き、以降は段階的 に放送時 間を延長していった。昭和41(1966)年当時、東京12チャンネルはNHKに吸収されるのではないか、などの風評も多々流れるほどであった が、翌年か らNHKや民放各局から番組を借り入れたり、プロ野球の中継や劇映画を放送するなどして、経営の再建に努力を重ねた。
 東京12チャンネルの経営が改善し始めたのは、昭和44(1969)年にテレビ事業本部の実質的運営が日本科学技術振興財団から日本経済新聞社 に引き継 がれてからのことである。営業収入が伸び始め、昭和45(1970)年度には開局以来初めて営業活動による黒字を計上した。もっとも、その後も欠 損金が増 えたり業績が今一歩のところで振るわなかったりし、また、昭和49(1974)年の石油危機の影響もあり、極度の経営不振は続いたが、昭和50 (1975)年に日本経済新聞社本社の業務取締役で電波事業を担当していた中川順が社長として就任したのを契機に、昭和51(1976)年度を基 点とする 経営3か年計画で7割減資という荒療治を断行したのが功を奏し、昭和54(1979)年3月に予定通り3か年計画が終了して再建も完了し、会社設 立以来初 めての二桁配当が出るところにまでこぎつけた。
 以上が、東京12チャンネルが開局し、開局してからは極度の経営不振を乗り切ってきた経緯である。こうした会社の中で誕生した番組が、昭和40 (1965)年9月〜12月放送の「歌謡百年」であり、「歌謡百年」を発展的解消させる形で昭和43(1968)年4月から放送開始させた「なつ かしの歌 声」であった。

3−2 「なつかしの歌声」という番組
 前章で述べたように、昭和40年代(1965〜1974年)の初頭に、流行歌の流行周期の短期化と、ファン層の低年齢化が目に見えて現れた。特 にテレビ の音楽番組は若者をターゲットにしたものが目立っており、30代以上の人たちの需要に答えることは難しかったと言えよう。その中で、「なつかしの 歌声」と いう番組が登場した。(56)これに 関しては、 「『10 代20代の歌番はあるけど40代後半の人たちの歌番がない。絶対やろうよ、三枝ちゃん』昭和42年 当時の制作責任者の三枝孝栄氏にお願いしたものです。」というコロムビア・トップの回想が物語っている。(57)〔『テレビ東京30年史』(1994: p.36)〕
 まず、「なつかしの歌声」の前身に当たる「歌謡百年」は、昭和40(1965)年9月〜翌年の1月まで、毎週金曜日21時30分〜22時に、 3ヶ月間だ け放送した。

 東京12チャンネルでは、昭和四十年十月から「歌謡百年」という番組の放送を開始した。これは、おりから明治百年を迎 えようと していた際であり、それを機会に、明治初年から太平洋戦争終結の前後にいたるまでの“はやり唄”を集めて放送しょう(マ マ)というのが一つのねらいであった。
 ここで特に述べておきたいのはこの「歌謡百年」が、いわゆる“なつメ ロ”を系統的 にテレビ化した、わが国では初めての番組であったということであ る。それまで他局にも“なつメロ”番組はあったけれど、いずれも単発か、せいぜい短いシリーズものか、あるいは新人歌手による“リバイバ ル”ものであっ た
 「歌謡百年」は、その最初の企画立案から制作放送の実施にいたるまでを三枝が担当、構成を永来が受持ってスタートし、年末、年始の特集番組 をもふく めて十八回続いたが、昭和四十一年一月、いちおうその使命を果たして終了した。
 内容は、その時代ごとの世相や出来ごとを、その頃のフィルム、写真、新聞雑誌記事、などを画面にはさみながら、これを司会者が説明し、その あいだに 当時はやった歌を入れていく、という一種の“風俗歌謡番組”であったが、重 点はあく までも“歌”とそれをうたった“歌手”においた
 本文中にも、いく度か触れておいたけれど、―この番組でとりあげる歌 は、それを最 初にレコードに吹込んだ歌手にうたってもらう―というのが企画の基 本的な線であった。そのために、“ひと 探し”には随分と苦労もしたが、またその反面、この番組を機縁に、歌謡界に復帰した 人たちも何人かい る。〔三枝・永 来(1970),p276、太線部は引用者による〕

 「歌謡百年」及び「なつかしの歌声」の番組プロデューサーは三枝孝栄、構成は永来重明が担当した。三枝孝栄は、昭和27(1952)年に大学を 卒業後 NHKに入社して、テレビ番組ディレクターとして演芸、音楽、舞踊、ドラマを担当した後、昭和39(1964)年に東京12チャンネル開局と同時 に同社に 移籍した人物である。永来重明は、東邦文芸部、NHK文芸部を経てフリー放送作家となった人物であり、NHKラジオの「なつかしのメロディ―」の 構成もか つて担当していた。論者の三枝氏への聞き取りによると、「歌謡百年」は、当時の東京12チャンネルの科学技術教育専門局という方針に従い、明治、 大正、昭 和の社会世相と当時の流行歌、いわば歌謡史としてフィルムドキュメンタリーにするのが目的であったという。開局2年目という段階では、純粋な娯楽 番組とし ての音楽番組を制作することは不可能であったのである。もっとも、上記引用にもあるように、三枝氏は、歌の部分は出来るだけ当時歌った歌手をスタ ジオに招 いて歌ってもらうことを考えていた。また、3ヶ月で終了してしまったのも、決して打ち切りというわけではなく、当初から1クール13回完結の予定 でいたか らだという。むしろ、昭和41(1966)年の1月まで、計17回放送することになった(58)のは、視聴者からの反響が良く予定を延長したからだそう だ。そのような視聴者からの反響により、三枝氏は、いずれこれをレギュラーの歌番組にしたいと考えるようになった。
 そして、昭和43(1968)年になり、偶然放送の準備が整わない時間が出来、穴埋めとして4月から計4回の予定で、「なつかしの歌声」を放送 すること になった。この4回分の放送は穴埋めではあったが、既に構成の永来、司会のコロムビア・トップとは、いずれレギュラー番組にするための打ち合わせ を始めて いたという。そして、これも「歌謡百年」同様、視聴者からの反響が良く、計4回の予定が17回に延長した。この「仮放送」の期間は、4月3日〜5 月8日ま でが毎週火曜日21時〜21時30分、5月17日〜6月28日までが毎週金曜日22時30分〜23時、7月からは番組タイトルを「続・なつかしの 歌声」と した上で、7月13日〜7月27日までが毎週土曜日23時〜23時30分、8月3日が土曜日23時30分〜24時に放送し、2ヶ月休んだ後に10 月から毎 週火曜日21時30分〜22時の正式なレギュラー番組となった。この辺りの事情を説明する記事を以下にいくつか引用しよう。

40代のための歌番           下 村泰(コロムビア・トップ)氏
 「10代20代の歌番はあるけど40代後半の人たちの歌番がない。絶対やろうよ、三枝ちゃん」昭和42年当時の制作責任者の三枝孝栄氏にお 願いしたもの です。穴埋め番組としてスタートした「なつかしの歌声」が番組として定着しようとは。「今は亡き…」といえば、本人から実在の電話があった り、カメラの前 を通り過ぎて戻らぬ人のいることも悲しい現実です。“老いたる者には過ぎにし青春の郷愁を、若人には去(い)にて再び帰り来たらぬ古(いにし え)の幻を ―”この番組の凄さは30年前のヒット曲を本人が歌っていたことではないでしょうか。〔『テレビ東京30年史』(1994:p.36)〕

歌謡番組と12ch             藤山一郎氏
 まず他局に先駆け「なつメロ番組」を汲んでいただいたことに対して深い敬意を表します。昭和40年「歌謡100年」、42(ママ)年「なつかしの歌声」そして現在まで続く「年忘れにっぽんの歌」などです。大晦日の「年忘 れ…」の第1回は 神田共立講堂からの生中継で、当日は今のようなカラーでなくモノクロ放送。演出、カメラ、照明の皆さんとても大変な時代でした。12chと共 に歩んだ私自 身も感無量、今は昔の物語です。〔『テレビ東京30年史』(1994:p.28)〕

 今年四月から始った東京12チャンネルの「なつかしの歌声」(火曜、夜9・30)が好調をつづけている。戦前、戦中に 流行した 歌、しかもその人の持ち歌とはいえ平均年齢が五十―六十代の歌手が歌う番組が、これほどきかれるとは同局も予想しなかったという。今年のしめ くくりとし て、三十一日の大みそかには、東京・神田の共立講堂でレギュラー歌手が勢ぞろいして「なつかしの歌声」大会を開くことになっている。
 七十二歳(ママ)の東海林太郎を筆頭に藤山一郎、霧島昇、美ち奴、勝太郎らがレギュラーで 歌うこの番組 は、昭和四十年九月から四十一年四月(ママ)まで放送した「歌謡百年」を、今 年四月に「なつ かしの歌声」 として復活させたもの。「この四月にアナウメ番組として一カ月四回だけやってみようとスタートしたのが、反響が大きくて七月まで十七回もやっ た。八、九月 は放送を休んだが“つづけてくれ”という注文があちこちからきましてね」と局側はいう。十月に再スタートした当時、同局としては記録的な視聴 率をかせい だ。
 三十代以上のオールドファンが視聴者だが「親とみていて好きになった」という若いファンもいる。視聴率が高くなるのは戦前、戦中のヒット曲 だが、なかで も軍歌はとくに反響があり、放送が始ると局へ電話がかかってくるほど。「いまの若い者はたるんでいるからやってくれ」「暗い思い出につながる からやめて」 と賛否両論あるが、否定的な声は五通に一通の割りという。(中略)
 「落ちついた歌謡曲をきく機会がないこと、三十代以上の人の思い出をつづる歌番組がほかにないことが人気の集中した原因でしょう」と担当の 三枝プロ デューサーはいっている。(「大もてのなつメロ」,『朝日新聞』昭和43(1968)年12月25日夕刊,p.8)

 なつ・メロ歌手をこれだけ一同にそろえられるのは、また東京12チャンネルをおいてはあるまい。「この番組がスタート した四十 三年はグループ・サウンズが全盛だった。テレビ局はどこでも、G・Sに目の色を変えていたもので、大人が聞ける歌番組がなかった。まあ、一種 の挑戦だった のかな。幸いウチでは“歌謡100年”という歌でつづる風俗史みたいな番組が前にあったんですよ。古い歌手にこれで渡りがついていたから、人 集めには問題 なかった」
 最初は七回ぐらいの“特番”でやるつもりが、フタを開けてみて、予想外の人気。さっそくレギュラー番組に昇格。(「超ワイド特集 生きていた想い出の歌謡曲――第1部 爆発したなつ・メロブームの稼ぎ頭は?」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,p.30)

 さて、この「歌謡百年」が発展的解消をして、二年後の昭和四十三年四月に装いを新たにして登場した番組が「なつかしの 歌声」で ある。その後約一か月間休んだが、十月第一週から再び「なつかしの歌声」として放送開始され、現在にいたっている。この本の出版される時点で は、おそらく 通算百回を越していることになろう。この間に迎えた昭和四十三年の大晦日には、東京神田の共立講堂から二時間にわたって、また、昭和四十四年 の暮には歌舞 伎座から三時間にわたって、年忘れの特集番組をそれぞれなま中継した。とくに、歌舞伎座のときは、東京12チャンネルとしては初のカラー中継 放送であっ た。この二度にわたる年末の特別番組は絶大の反響を呼び、視聴率も抜群であった。
 さて、この「なつかしの歌声」は、先の「歌謡百年」とは別に、新しい発想の企画のもとにスタートした。そのいちばん大きな相違は、とりあげ る歌の年代を 昭和の初期から、終戦を中にはさんで、昭和三十年代にまでにかぎり、明治・大正時代はいちおう割愛したことと、「歌謡百年」におけるような時 代的説明はで きるだけ簡略にし、“歌”本位の、そして最も素朴な形での“なつメロ”番組にころもがえをしたことである。しかし、そのとりあげる歌は、それ を最初に歌っ た歌手で……という一線だけはくずしていない。―もっとも、中には故人となったり、現役を退いてマイクから遠ざかっている人たちのうたった歌 のなかにも、 ずいぶんとヒット曲がある。それは“リバイバル”という形でとりあげた。しかし、これは本来の企画からいえば例外に属するものである。〔三 枝・永来 (1970),p276〕

 「歌謡百年」はあくまでも社会世相史番組という意味づけでの番組であったが、「なつかしの歌声」では、純粋な音楽番組として企画構成することが できた。 以下の表4は、昭和44(1969)年9月29日〜10月5日の1週間に放送されたテレビ各局の音楽番組のうち、視聴率が10%を超えたもののリ ストであ る。当時関東地区で放送されるテレビの音楽番組は50本を越えていたが、その中にあって「なつかしの歌声」は、決して低くない視聴率を獲得してい たという ことが分かる。(59)
表 4(「各 局の主な歌謡番組のうち、視聴率10%を越えるもの」,〔野村(1969:p.19)〕の表による)

 「なつかしの歌声」は、昭和43(1968)年10月から45(1970)年9月までは毎週火曜日21時30分〜22時に、昭和 45(1970)年10 月から46(1971)年3月までは毎週火曜日21時〜21時30分に、昭和46(1971)年4月から同年の6月までは毎週土曜日22時〜22 時30分 に、昭和46(1971)年7月から同年の9月までは毎週木曜日23時〜23時30分に、昭和46(1971)年10月から同年の12月までは毎 週土曜日 22時〜22時30分に、昭和47(1972)年1月から同年の3月までは毎週日曜日22時〜22時30分に、昭和47(1972)年4月から同 年の9月 までは毎週土曜日22時〜22時30分に、昭和47(1972)年10月から同年の12月までは毎週日曜日22時30分〜23時に、昭和 48(1973) 年1月から同年の3月までは毎週土曜日20時〜20時30分に放送し、いったん放送を終了する。この後、昭和48(1973)年4月から9月まで は、毎週 土曜日20時〜21時まで、「思い出のヒット曲」という、「なつかしの歌声」と同内容の番組を放送し、昭和48(1973)年10月から翌年の3 月には 「なつかしの歌声」に再び番組名を戻して毎週日曜日22時30分〜23時に放送をし、2度目の最終回を迎えた。結果、6年間放送は続いた。以上が 通常枠で の放送であるが、大晦日にNHKの「紅白歌合戦」の裏番組として放送する特別枠での放送は昭和43(1968)年から、夏の特別枠での放送は昭和 45 (1970)年から、それぞれ現在まで続いている。(60)特 に、大晦日の特別番組は、当時視聴率70%台を誇っていたNHKの「紅白歌合戦」の裏番組で ありながら、昭和43(1968)年が11.0%、同社として初のカラー生中継で放送した昭和44(1969)年が10.9%、昭和 45(1970)年が 12.8%と、二桁の視聴率を獲得したことは、当時以下のように話題になった。(61)

 因みに昨年この<紅白歌合戦>の裏番組として<なつかしの歌声大会>を放送、一一・一%の視聴率を上げ、“紅白”のた め不振の 民放局にあって気を吐いた東京12チャンネルが今年は時間を広げ、内容も拡張して、あくまでも歌を主体にした番組、演出も意識して初期的手法 で茶の間に訴 えかけるという。果たしてこれもみものである。〔野村(1969:p.22)〕
  
 なつ・メロ・ブームの火付け役はなんといっても東京12チャンネル「なつかしの歌声」。この八月四日には百回記念で二 時間のワ イド番組を放送する。
 いまや、名実ともに東京12チャンネルの看板番組。大晦日の「なつかしの歌声・年忘れ大行進」はNHKの「紅白歌合戦」のかんげいすべから ざる裏番組に なっている。(「超ワイド特集 生きていた想い出の歌謡曲――第1部 爆発したなつ・メロブームの稼ぎ頭は?」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,pp.29-30)
  
 この“紅白”の独走のかげで泣いたのは東京12チャンネルを除く民放各局。「巨泉まとめて百万円」(一・二%)「細う で繁盛 記」(一・九%)「帰ってきた歌謡曲」(一・〇%)=以上日本テレビ、「旧作映画・鳥」(四・〇%)=TBSテレビ、「同・ナイスガイ」 (〇・三)=フジ テレビ、「同・恐怖の蝋人形」(二・二%)=NETテレビと、裏番組のいずれもが枕をならべて討ち死といった恰好。
 そんな中にあって、ひとり健闘ぶりをみせたのが東京12チャンネルの恒例「なつかしの歌声」。第一回目の一一%、前回の一〇・九%を上回る 一二・八%の 最高記録をマーク、局関係者をこおどりさせている。開始当初の七時台では一三・四%、八時台で一六・八%をあげ“紅白”が始まる九時台で七・ 四%とグッと さがってはいるものの、これとても、前回からくらべれば二%もあがっており、さらに“紅白”の九時台九一・五%、十時台七九・五%という点を みてみると 「“紅白”開始当初はうちが大分くっていたことがわかる」(東京12チャンネル広報上村氏)とあって、喜びはひとしおといったところ。もちろ ん、中継会場 となった歌舞伎座は「ことしはじめて三階席にも観客を入れたがそれでも会場に入りきれないでお引きとり願った(同局編成部)ほどの大盛況。こ れに気をよく した同局は「“なつメロ”が落ち目なんてデマ。今年の大みそかもこの番組を“紅白”にぶっつけます」(同)と早くも“紅白”に挑戦状をたたき つけるほどの ハナ息の荒らさをみせている。(「若返りが成功した紅白歌合戦――“紅白”を食った『なつかしの歌声』」,『週刊TVガイド』昭和 46(1971)年1月 1日/1月8日合併号,pp.32-33)

 以上のように、東京12チャンネルは、「なつかしの歌声」という番組によって、昭和40年代(1965〜1974年)の日本に「なつメロブー ム」と呼ば れる現象を創出していった。

3−3 「なつかしの歌声」の特徴
 それでは、「なつかしの歌声」が昭和40年代(1965〜1974年)に築いた「なつメロ」ブームとはいかなるものであったのか。また、どうし て「なつ かしの歌声」は「なつメロ」ブームを築き上げることに成功したのであろうか。このことを考えていくにあたり、前の節で引用した三枝・永来 (1970)をも う1度読み返そう。

 ここで特に述べておきたいのはこの「歌謡百年」が、いわゆる“なつメロ”を系統的にテレビ化した、 わが国で は初めての番組であったということである。それまで他局にも“なつメロ”番組はあったけれど、いずれも単発か、せいぜい短いシリーズものか、 あるいは新人 歌手による“リバイバル”ものであった。(中略)
 本文中にも、いく度か触れておいたけれど、―この番組でとりあげる歌は、それを最初にレコードに吹込んだ歌手にうたってもらう―というのが 企画の基本的 な線であった。そのために、“ひと探し”には随分と苦労もしたが、またその反面、この番組を機縁に、歌謡界に復帰した人たちも何人かいる。 〔三枝・永来 (1970:p276)〕

 「歌謡百年」及び「なつかしの歌声」の制作者は、自分たちが初めて日本において系統的な「なつメロ」番組を作ったのだという ことを自 負している。果たして本当にそうであったのだろうか。論者は前章で、NHKラジオの「なつかしのメロディー」が最初の「なつメロ」番組であり、以 降これを 皮切りに、NHKや民放各社で次々と「なつメロ」番組が作り上げられていったという事実を指摘した。例えば、昭和39(1964)年の朝日新聞の コラムに 以下のようなものもある。

◇ 根強い “ナツメロ”番組◇
 海(日本短波「5時です漁船の皆さん」「海上ダイヤル」や山(日本短波「今晩は現場の皆さん」)や主婦(文化「奥様電話リクエスト」)から のリクエスト はナツメロ曲(なつかしのメロディ―)が圧倒的。NHKラジオ@の「私の音楽アルバム」(水、昼)担当者も、四月から船頭小唄が四回だ、と有 名人のナツメ ロ趣味に驚いているし、NHKラジオ@の「歌は結ぶ」(月、夜)のゲストの有名人にもナツメロ・ファンが多い。
 若い日の思い出と故郷への郷愁がある限りナツメロは消えないし、TBSラジオの「歌のない歌謡曲」が開局以来の長期番組であるのもナツメロ の根強さを 語っている。
 しかし典型的ナツメロ番組は歌手と歌を直接に結びつけたNHKテレビの「黄金のいす」(木、夜)と文化の「歌で歩む50年」(日、昼)「あ の夢この歌」 (土、夜)だけ。近ごろはリバイバル趣味というより、近代的編曲で、ナツメロ曲を聞き直そうという名曲保存運動のような性格に変ってきた。各 局の音楽番組 担当者も、アメリカでスタンダード・ナンバーが繰返して出ているのと同じように当然の成行きだ、としている。
 TBSラジオの「歌のない歌謡曲」文化の「思い出のメロディー」(朝)ニッポンの「歌なし歌謡曲」(朝)「あの日の歌」(朝)「奥さまへの 軽音楽」 (朝)のように、メロディーだけのものや、NHKテレビの「黄金のいす」NHKラジオ@の「歌は結ぶ」文化の「クラリネットと歌おう」(朝) 「思い出のメ ロディー」ニッポンの「にっぽんの歌」(朝)「あの日の歌」のようにバンド演奏やナマの歌の番組が多いのも、ナツメロ曲を大事にしようという 気持のあらわ れである。
 移り変りのはげしい流行歌の中から現在にまでつながっているいい曲を今日的な感覚で聞かしているいまのナツメロ番組は音楽番組の中でしっか りした地位を 築いている。(『朝日新聞』昭和39(1964)年7月20日朝刊,p.7)(62)

 このように、東京12チャンネルの「歌謡百年」や「なつかしの歌声」が放送される以前から、テレビやラジオにおいて「なつメロ」番組は存在して いた。し かしながら、東京12チャンネルの「なつメロ」番組と、それ以前の「なつメロ」番組を明確に区別する差異が存在している。それは、「番組でとりあ げる歌 は、それを最初にレコードに吹込んだ歌手にうたってもらう」という、「歌謡百年」や「なつかしの歌声」の制作者の基本線にも表れているように、往 年のオリ ジナル歌手を再評価して権威づけしていこうという流れであった。この点に関しては、三枝・永来(1970)の発刊に際して寄せられた東海林太郎の 「推薦の 辞」にも顕著に表れている。

東海林太郎       推薦の辞
東京12チャンネルの名チーフ・プロデューサー三枝孝栄氏発想による「なつかしの歌声」は、歌声という所に味わいがある。なつかしの歌、所謂 (いわゆる) なつメロではない。なつメロなら誰が歌ってもかまわないが、歌声ともなれば最初に歌った歌手が歌わなければならない。かく申す小生も幾度もお 世話になって いる。だから褒(ほめ)めるんじゃないが楽しく歌い、想い出深く聞かせて戴いている。〔三枝・永来(1970:p.11)〕

 なつかしの“メロディー”ではなく、なつかしの“歌声”であるというわけである。前章で見てきたように、昭和30年代(1955〜1964年) のリバイ バル・ブームは、主に若手歌手がリバイバルしていたし、リズムも現代風にアレンジされていた。上記朝日新聞の記事で紹介されている「なつメロ」番 組も、大 半は歌なしのメロディーだけのものや、歌付きのものであったとしても、「現代の」歌手がリバイバルしていたものであろう。しかも、「近代的編曲」 も施され ていたとある。それに対して、「歌謡百年」及び「なつかしの歌声」では、「なつメロ」を必ず「最初にレコードに吹込んだ歌手にうたってもらう」こ とを基本 線にしていたし、編曲もオリジナルに忠実であった。
 もっとも、昭和24(1949)年〜昭和35(1960)年までNHKラジオで放送していた「なつかしのメロディ―」も、「なつメロ」を歌うの は基本的 に「最初にレコードに吹込んだ歌手」であったし、昭和41(1966)年3月までNHKテレビで放送していた「黄金のいす」は、ベテランの作曲 家・作詞 家・歌手をスタジオに招いて話を聞く、というものであった。まず、「黄金のいす」に関しては、実際に現在視聴できるわけではないので確実なことは 言えない のだが、あくまでもゲストから話を聞くというのが主体であり、歌を歌ってもらうというのは副次的なものに過ぎなかったのではないだろうか。それに 対して、 「歌謡百年」は、風俗歌謡番組とは言っても「重点はあくまでも“歌”とそれをうたった“歌手”におい」ていたし、「なつかしの歌声」でも、ゲスト から話を 聞くのは副次的なもので、歌を歌ってもらうことに重点を置いたものであった。(63)まさに「歌謡百年」と「なつかしの歌声」は、往年のオリジナル歌手が 歌を歌っている姿を人々に見せることで、「なつメロ」ブームを築いたと言えるであろう。
 次に、NHKラジオの「なつかしのメロディー」に関してであるが、これは生中継放送であり、最初にレコードに吹き込んだオリジナル歌手が現役の 場合には スタジオに呼び、歌ってもらった。明治・大正時代の歌のように、「この歌にはこの歌い手」といった明確な歌い手が存在していなかったり、最初にレ コードに 吹き込んだオリジナル歌手が既に亡くなっているか現役を引退している場合には、代わりの歌手及び合唱団がリバイバルをするという形をとり、レコー ドをかけ て代用するといったことはほとんどなかった。「なつかしのメロディ―」の放送によって「なつメロ」ブームにまでは到らなかった理由には、第一に、 それが放 送されたのが昭和20年代(1945〜1954年)〜30年代(1955〜1964年)の前半であったということにあるだろう。昭和40年代 (1965〜1974年)とは違い、まだ流行歌の流行周期の短期化とファン層の低年齢化が起こる以前であり、中高年層が「なつメロ」にすがりつく 必要性が なかったということもあるだろうし、この当時においては、戦前デビューの歌手も流行歌や芸能界の世界ではまだまだ第一線で活躍しており、これらの 歌手に対 して懐かしいと思う感情が芽生えなかったという点もあるだろう。特に後者に関しては、「なつかしのメロディ―」に出演する歌手が、他方で「今週の 明星」や 「黄金の椅子」などの、他の人気音楽番組にも普通に出演するような時代であり、彼らはまだ忘れ去られた存在ではなかった。(64)歌に対しては“懐かし い”と聴取者に思わせることができても、歌手に対しては“懐かしい”という感情を呼び起こすことはできなかったと言えよう。第二に、「なつかしの メロディ ―」の放送メディアがラジオであったということも影響しているであろう。ラジオというメディアは、人々に音声を伝えるに過ぎない。「歌謡百年」及 び「なつ かしの歌声」において、往年の歌手が歌っている姿を初めてブラウン管で目の当たりにし、自分の青春時代の思い出をよみがえらすことが出来たファン も多かっ たであろう。

3−4 「なつかしの歌声」の番組の工夫
 「なつかしの歌声」は、往年の歌手を世間に再評価・権威づけさせるに当たり、どのような工夫を凝らしたのであろうか。〔三枝・永来(1970: p276)〕に、「“ひと探し”には随分と苦労もしたが、またその反面、この番組を機縁に、歌謡界に復帰した人たちも何人かいる。」とあるよう に、同番組 では、「番組でとりあげる歌は、それを最初にレコードに吹込んだ歌手にうたってもらう」ということを徹底するために、既に流行歌の世界を引退して いる人物 を引っ張り出すということを行なった。塩まさる、小野巡、児玉好雄、羽衣歌子、石井亀次郎、酒井弘は、ともに昭和戦前期にデビューした歌手である が、戦後 は芸能界を引退して消息が分からなくなっているのを、番組で探し出してスタジオに呼び、歌を歌ってもらった。

 東京12チャンネルでは、「なつかしの歌声」にぜひこの「九段の母」を塩まさるの歌唱でブラウン管にのせたいと思い、 彼の所在 を探してみたが、全く不明であった。三枝プロデューサーと私とは、ふたたび手分けをして心当たりに照会してみた。その結果、戦死したとか、伊 東で温泉旅館 を経営しているとか、神田の電気会社に勤めているとか、答えはまちまちであった。神田の会社の名前と電話番号を調べて問い合わせたところ、 “たしかにうち の会社にいたことがありますが、退社後の消息はわかりません”という返事であった。
 ――ところが、思いもかけず、塩まさる本人から、三枝プロデューサーのもとへ電話がかかってきた。…東京12チャンネルで彼を探している、 という噂が、 前述の会社の、昔の同僚の口からでも彼の耳に入ったのであろう。こうして意外な機会から、彼の所在がわかり、「九段の母」は、昭和43年6月 5日、はじめ て「なつかしの歌声」の電波にのったのである。〔三枝・永来(1970:p.215)〕
  
 この児玉好雄も、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」に是非出演してほしい人であった。その話が出た当時、やはり 所在不明 であった。
 とにかくビクターからキングへ転じたことまでわかっていた。私は親しくしているキングの作曲家細川潤一(「ああわが戦友」「マロニエの木 陰」などの作 者)のもとえ(ママ)電話してみた。消息はすぐわかった。児玉好雄のお嬢さん の結婚式に、細 川潤一が仲人 をつとめたというのだった。
 そこで出演の交渉にかかったが、病後の静養中とかでなかなか承諾を得られなかった。正直いって、彼はテレビ出演にはあまり気が進まなくて躊 躇していたら しい。それというのも、昔の彼を知るファンのイメージをこわしたくない、というのが本音のようだった。
 だが、三枝プロデューサーの再三にわたる懇望で、昭和四十三年の暮、出演は実現した。もちろん歌は「無情の夢」――しかも、ただ一曲だけ だった。だが、 昔の美声は少しも衰えていなかった。〔三枝・永来(1970:p.119)〕

 四家文子、小林千代子、志村道夫、波平暁男、美ち奴、由利あけみ、高峰三枝子、小笠原美都子、奈良光枝、神楽坂はん子、初代コロムビア・ロー ズ、青葉笙 子、日本橋きみ栄といった人物も、昭和40年代(1965〜1974年)当時は流行歌の世界から引退していたが、「なつかしの歌声」で久しぶりに 流行歌を 歌い、中には現役復帰した者もいる。(65)

 なお、波平暁男は戦時歌謡歌手として、当時、霧島昇につぐ人気があった。流行歌調のヒット曲としては「月夜船」を出し ている (次項参照)。だが、どういう心境の変化からか、終戦とともに現役を退いて生国の沖縄にかえり、その地で歌謡学院をひらいて後進の養成にあ たっていたが、 最近ふたたびコロムビア芸能と専属の再契約を結んだ。東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が琉球放送にもネットされ、その好評に刺戟され てか、出演し たい意向を伝えてきている。〔三枝・永来(1971:p.59)〕
  
 なお、高峰三枝子は、戦後、映画主題歌をいくつか吹きこんだが、その後、のどを痛めて、およそ十年の間レコードや放送 から遠ざ かっていた。東京12チャンネルで「歌謡百年」の開始にあたって、たまたま同局の別番組に出演中の彼女に、三枝プロデューサーが「歌ってみる 意向はない か」ときいたところ、最初は固辞したが、再三の熱心なすすめで、ようやく歌う気になり、それから自分で納得のいくまで練習を重ね、やっとテレ ビ出演が実現 した。
 「あの機会が与えられなかったら、私は再び歌をうたうことはなかったでしょう」と彼女は述懐している。〔三枝・永来 (1970:p.260)〕
  
 東京12チャンネル「なつかしの歌声」では、この「十三夜」をオリジナルの形でブラウン管に再現しようと企画を立て、 当時大阪 に在住していた小笠原美都子をわざわざ東京のスタジオにまで呼びよせてうたってもらった。(第57回 昭和44・10・21放送)おそらく、 これが小笠原 美都子にとっても、戦後はじめての「十三夜」のテレビ放送であったろうかと思われる。なお、当日は東海林太郎も出演していたので、「琵琶湖哀 歌」も二人で いっしょにうたい、レコード吹込み当時の姿をそのまま復元放送できた。なお、この歌は、「なつかしの歌声」百回記念講演でも、サンケイ・ホー ルの舞台で二 人がうたって好評を博した。〔三枝・永来(1971:p.52)〕
  
 デビューしてからわずか半年たらずのうちに神楽坂はん子の名は全国的に知れわたってしまった。(中略)だが、どうした ことか、 二年半後(昭和三十年)、まだ人気が上昇中だというさなかに、ふいと引退してしまった。その後、レコード界に復帰したものの、歌はうたわず、 クラウン・レ コードの女ディレクターという風変りな地位だった。
 ところが、世の中はおもしろいもので、偶然の一致とでもいおうか、東京12チャンネルが「なつかしの歌声」の放送を開始した昭和四十三年の 四月、その同 じ月に、はん子はそれまで住んでいた関口駒井町の家を引きはらって、ふたたび神楽坂の近くの、こじんまりした家に移ってきた。彼女自身の口か ら出た言葉を 借りると「これまで十三年間の、おんなの歴史を燃してきました」そうだ。ま、それはさておき、その後、制作担当の三枝チーフ・プロデューサー の再三にわた る熱心な要請によって、彼女はふたたび“歌手”としてブラウン管にそのあで姿を見せることになった。それ以来、他の各局にも出演、流行歌や俗 曲をうたっ て、現役歌手もおよばぬ人気を博している。最近ではLPも二、三種吹込み、とても一たん引退した人とは思えないほどの活躍ぶりである。なんに してもめでた いことだ。〔三枝・永来(1971:p.223)〕

 当時現役中の歌手だけでなく、現役を離れていた歌手までをも引っ張り込んだという所に、「なつかしの歌声」の成功と、昭和40年代 (1965〜1974 年)の「なつメロ」ブームの特徴があるだろう。(66)要 するに、既に人々から忘れ去られていた往年の歌手を、再び彼らの記憶から呼び起こすことに貢献し たのである。
 他にも「なつかしの歌声」では、オールド歌手にお馴染みの歌を歌ってもらうだけではなく、あまり人々に知られていないようなマニアックな歌を 歌っても らったり、他の歌手の持ち歌を歌ってもらうという企画も行なった。「『なつかしの歌声』放送全記録」(67)によると、あまり知られていないようなマニ アックな歌というのは、昭和43(1968)年と昭和44(1969)年を取りあげるだけでも、例えば5月17日放送の藤山一郎「英国東洋艦隊潰 滅」で あったり、6月14日放送の伊藤久男「雲のふるさと」、霧島昇「今年の燕」、11月5日放送の霧島昇「夜霧の波止場」、翌44(1969)年の2 月18日 放送の田端義夫「母と兵隊」、4月8日放送の東海林太郎「築地明石町」、4月15日放送の林伊佐緒「女性の戦い」…とキリがない。他の歌手の持ち 歌を歌っ てもらうという企画に関しては、例えば昭和44(1969)年12月23日放送の回では、今は亡き人のヒット曲を歌うという企画で、伊藤久男が松 平晃と徳 山lの歌を、田端義夫が北廉太郎と上原敏の歌を、石井亀次郎が楠木繁夫と上原敏の歌を、近江俊郎が上原敏と松平晃の歌をそれぞれ歌っているし、昭 和45 (1970)年10月27日放送の回では、市丸の持ち唄である「天竜下れば」と「濡れつばめ(お小夜恋慕の歌)」をそれぞれ榎本美佐江と神楽坂は ん子が唄 い、そのお返しに市丸が神楽坂はん子の持ち唄である「ゲイシャ・ワルツ」を唄い、最後にこれまた市丸の持ち唄である「旅は青空(青空恋し)」を3 人で唄う という、持ち歌の交換が行なわれている。「戦前、戦中、戦後をそれぞれ代表する三人の日本調歌手が、お互いに持ち歌をとりかえてうたうという企画 は『なつ かしの歌声』ならでは」の、なかなかおいそれとは実現できない企画であった。〔三枝・永来(1971:p.255)〕以上の「なつかしの歌声」の 企画から も、同番組が「なつかしの“メロディー”」ではなく「なつかしの“歌声”」なのであり、歌そのものを単独で取り出すのではなく、往年の歌手が歌を 歌う姿に スポットを当てようとした姿勢が伝わってくる。

3−5 「なつかしの歌声」の全国展開
 以上、昭和40年代(1965〜1974年)に「なつメロ」ブームが起こるきっかけとなったのは、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」で あった。だ がここで、当時地方に系列局がなく、東京のローカルテレビ局に過ぎなかった東京12チャンネルの影響力が、果たしてどの程度のものであったのかと 疑問視す る声も出よう。このことに関して、以下に説明していこう。
 まず、「なつかしの歌声」は関東地方でしか放送されていなかったのではないかという疑問がある。これに関しては、三枝氏及び三枝氏の部下であっ たT氏か ら話を伺うことが出来た。
 当時既に同番組は、生中継ではなく、あらかじめVTRで録画撮影してから放映していたので、地方の各テレビ局の要望で、同番組のフィルムを数日 後〜数ヶ 月後に送り、番組販売していたとのことである。例えば、関西地方では毎日放送が、東海地方では名古屋テレビが、沖縄では琉球放送が番組を買い取 り、テレビ で放映していた。「なつかしの歌声」はこのように、ほぼ全国各地でテレビ放映されていたようである。(68)三枝氏によると、この「なつかしの歌声」で初 めて東京12チャンネルの番組を全国販売することが出来たことが、同社の全国展開につながったとのことである。地方での公開録画をしたのもこの番 組が最初 であり、特に、本土復帰間もない沖縄での公開録画は画期的なことであったとのことだ。(69)要するに、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」という番 組には、全国各地のテレビ局が目をつけていたということになろう。
 東海地方の名古屋テレビでは、昭和44(1969)年1月から毎週水曜日21時30分〜22時に放送している。その後同番組の放送時間帯が変わ ることは ずっとなく、昭和48(1973)年3月に関東地方でいったん「なつかしの歌声」が終了したのをきっかけに、東海地方でも放送枠が毎週金曜日22 時30分 〜23時に移り、翌年の昭和49(1974)年4月に、関東地方より遅れること半月で最終回を迎えている。(70)
 以下は、東海地方で初めて「なつかしの歌声」が放送された日の、東海地方の地方紙である中日新聞の番組欄に載った広告である。縦3センチ強、横 7センチ 強の大きめの広告で、番組欄の目立つところに掲載されている。この日放送された回のサブタイトルは「思い出の窓辺に」であり、関東地方では昭和 43 (1968)年10月8日放送分の、本放送開始2回目のものである。以降、東海地方では、関東地方より3ヶ月遅れで放送することになった。(71)

 もちろん、地方の視聴者も「なつかしの歌声」をしっかりとチェックしていたようである。以下にビデオ・リサーチ社の中部支社で閲覧した名古屋地 区の「な つかしの歌声」の3ヶ月ごとの視聴率の変遷をリストにする。
日時
視聴率及び平均視聴率(%)
昭和44(1969)年1月15日(第1回)
21.5
昭和44(1969)年1〜3月
20.2
昭和44(1969)年4〜6月
19.1
昭和44(1969)年7〜9月
17.5
昭和44(1969)年10〜12月
16.4
昭和45(1970)年1〜3月
18.5
昭和45(1970)年4〜6月
12.0
昭和45(1970)年7〜9月
11.7
昭和45(1970)年10〜12月
13.7
昭和46(1971)年1〜3月
14.4
昭和46(1971)年4〜6月
14.6
昭和46(1971)年7〜9月
12.0
昭和46(1971)年10〜12月
14.6
昭和47(1972)年1〜3月
13.8
昭和47(1972)年4〜6月
12.2
昭和47(1972)年7〜9月
11.7
昭和47(1972)年10〜12月
16.8
昭和48(1973)年1〜3月
14.2
昭和48(1973)年4〜6月
7.2
昭和48(1973)年7〜9月
6.9
昭和48(1973)年10〜12月
6.3
昭和49(1974)年1〜3月
4.6
昭和49(1974)年4月
2.5

 次は、夏及び大晦日の特別枠での名古屋地区の視聴率である。
日時
視聴率(%)
昭和44(1969)年12月31日25:05〜
不明
昭和45(1970)年8月15日(土)24:40〜
不明
昭和45(1970)年12月31日25:00〜
不明
昭和46(1971)年8月14日(土)24:50〜
3.4
昭和46(1971)年12月31日25:05〜
5.5
昭和47(1972)年8月14日(月)24:35〜
2.6
昭和47(1972)年12月31日25:05〜
7.8
昭和48(1973)年8月10日(金)24:05〜
1.7
昭和48(1973)年12月31日25:05〜
4.9
昭和49(1974)年8月9日(金)24:10〜
2.9
昭和49(1974)年12月31日25:05〜
4.5

 まずは通常枠での視聴率の説明から入ろう。関東地区の視聴率と比較できると良かったのだが、東京のビデオリサーチ社本社まで出向く時間の余裕が なかった ため、関東地区の視聴率データは入手できなかった。しかし、3−2で紹介した図4と比べてみても、決して名古屋地区の視聴率は引けを取らないとい うことが 分かるであろうし、他の音楽番組の視聴率と比較しても、全く引けを取らなかった。次に、通常枠の視聴率リストを見ていると、昭和45(1970) 年4〜6 月と、昭和48(1973)年4〜6月の2つの境界線で、視聴率がグッと下がっていることに気づくであろう。昭和45(1970)年4〜6月の境 界線で視 聴率が下がっている原因は特定できないが、この時期には、各局の他のテレビ番組、音楽番組も同様に視聴率が下がっているため、「なつかしの歌声」 の相対的 な視聴率が下がったわけではないということを指摘しておきたい。昭和48(1973)年4〜6月の境界線に関しては、前月の3月に関東地方でいっ たん「な つかしの歌声」が終了した時期に当たり、東海地方でも放送枠が毎週金曜日22時30分〜23時に移った時期に当たる。この時期の視聴率低下は、こ のことが 影響していると考えられる。
 次に、特別枠での視聴率の説明をしよう。以下の関東地区の視聴率(72)と 比較してみると、名古屋地区は関東地区よりも軒並み低くなっている。これは、 名古屋地区では関東地区のように生中継ではなく、録画したものを深夜の24時台〜25時台という時間帯に放送を開始していることが原因であると思 われる。
日時
視聴率(%)
昭和43(1968)年12月31日
11.0
昭和44(1969)年12月31日
10.9
昭和45(1970)年8月4日(火)
20.4
昭和45(1970)年12月31日
12.8
昭和46(1971)年8月8日(日)
16.5
昭和46(1971)年12月31日
8.7
昭和47(1972)年8月13日(日)
16.0
昭和47(1972)年12月31日
8.1
昭和48(1973)年7月15日(日)
11.3
昭和48(1973)年12月31日
6.4
昭和49(1974)年7月7日(日)
10.9
昭和49(1974)年12月31日
11.1

 以上のように、「なつかしの歌声」は、通常枠のものに関しては、関東地区同様に名古屋地区でも視聴されていたということが分かった。(73)このことか ら、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」の影響力は全国に浸透しており、同番組が地方でも「なつメロ」ブームを築き上げていたということが言 えるであ ろう。

3−6 他のメディアへの相乗効果
 東京12チャンネル「なつかしの歌声」は、他のメディアにも相乗効果を及ぼしたと言える。まず、テレビ・ラジオ番組で、類似の「なつメロ」番組 が登場し た。
 ラジオ関東「この歌あの人」は、京都シンポ工業がスポンサーで、昭和43(1968)年11月から昭和47(1972)年3月まで放送されてい たラジオ 番組である。関東地方では、昭和43(1968)年11月から昭和46(1971)年7月までは毎週日曜日17時〜17時30分に放送していった ん放送を 終了した後、同年の10月から翌年の3月までは、毎週日曜日17時30分〜18時に放送した。放送局は、ラジオ関東の他、近畿放送、中部日本放 送、RKB 毎日放送である。この番組の司会をしていたのは、宇井昇という、民間放送第一号のアナウンサーであった。(74)宇井昇自身が「なつメロ愛好会」の会報で この番組の紹介をしているので、以下に引用しよう。

 終戦、カストリやドブロクをやっているうちにアナウンサーになって、名古屋の中部日本放送昭和二十六年九月一日、民間 放送が開 始。私の声が日本の民放の第一声で。
 昭和三十四年、フリーになってまた東京。一昨年の十一月、京都シンポ工業がスポンサーで、なつメロ「この歌、あの人」スタート物故歌手は関 係者、現在歌 手はご本人の話を聴きながら、レコードは原則としてオリジナルのSP。作詞、作曲の先生方にもスポットライトをあててということで、中山晋平 作曲の「ゴン ドラの唄」をテーマ音楽に、上原敏特集を第一回として、デイックミネ、渡辺はま子、灰田勝彦、東海林太郎、霧島昇。淡谷のり子、二葉あき子、 田端義夫、榎 本健一、小畑実、勝太郎、藤山一郎、伊藤久男、岡本敦郎、高峰三枝子、岡晴夫、作曲家の故阿部武雄、故中山晋平、菅原都々子、近江俊郎、故松 平晃、故楠(ママ)繁夫、作詩の藤田まさと、音丸、作詩の島田馨也。
 レコード大賞特別賞の佐伯孝夫紫綬褒賞の時雨音羽、服部良一、古関裕而 …特集と綴って六十数週間。
 私は、思いがけない多くの方々から心温まる便りをいただいて感激。反面、オリジナルのSPをさがすのが大変で。名古屋の森一也さんのお世話 になったり、 大阪の井上さんからハッパをかけられたり、近く宇都宮の福田さんをおたずねするつもりで。
 「この歌、あの人」は目下、ラジオ関東、中部日本放送、近畿放送RKB毎日放送と四局ネットで流れています。なつメロフアンの皆様の御指 導、御叱正をお 願いしたい、なつメロを聴くのは、私にとっては親父と対話しているみたいなもので。
 親父が死んでからもう三十年になる。(宇井昇「“この歌 あの人”」,「なつメロ愛好会」会報第6号,昭和45(1970)年,p.1)

 なつメロをオリジナルの原盤で聴き、織りなす人間模様を正確に伝えようという企画で「この歌あの人」がシンポ工業の提 供で、ラ ジオ関東をキー・ステーションに中部日本放送、近畿放送、RKB毎日放送の四局ネットでスタートしたのは昭和四十三年十一月でした。
 第一集の「上原敏特集」から最終回、第一七七集の「島田磬也特集」までの三年半。今、最終回の放送を終えて、私は虚脱状態です。永いようで もあり短いよ うでもあったあの日この時の感激がアリアリと走馬灯のよ(ママ)によみがえり ます。(宇井昇 「“この歌あ の人”始末記」,「なつメロ愛好会」会報第19号,昭和47(1972)年,p.6)

 宇井が述べているように、この番組では、毎週1人ずつ往年の歌手及び作詩・作曲家を選んだ上で、既に亡くなっている場合は関係者に、生存中の歌 手には本 人に出演してもらい、当時の思い出話を語ってもらいながら、オリジナル音源のレコードを流して歌を聞いてもらうという番組であった。(75)この番組でも 「なつかしの歌声」同様、取り上げる歌手の中にはマニアックな人物も含まれており、例えば藤原義江、三島一声、美ち奴、杉狂児、青葉笙子、如月俊 夫らが出 演している。聴取者の反応として、以下を引用しよう。

 去る三月一日の午後五時より、ラジオ関東「あの人この歌(ママ)」を 拝聴致し ました。相変らずの声で面白おかしく話をする 青葉さんに大変親しみを感じました。仙台弁の「ヨカンベ」までとびだし、かざり気のない性格に人の好さを表わしていました。まだまだ未練があ るかの様 「私って早トチリだから止めちゃったけれど、歌っていれば良かったわ!」という言葉は、いまのお上品振った歌手に聴かせたい文句です。上原 (敏)さん、北 (廉太郎)さんのお話も良かった。宇井さんがここでまた一くさり、“伊豆の故郷”や“夢のゆりかご”など北さんの話を一席。放送の中で、“戦 場撫子”素晴 らしい曲でした。(氏原幸夫「なつかしい青葉さん」,「なつメロ愛好会」会報第6号,昭和45(1970)年,p.6、括弧内は引用者によ る)
  
 ラジオ関東(全国ネット)の評判番組“この唄(ママ)あの人”が七月 終了しま した。本会の会員でもある宇井昇さんの司会で昔の SPを楽しめる唯一の放送番組でしたのに残念でなりません。是非再登場の一日も早からんことに協力していただけませんか。 あの番組の聴取者 の意見欄で寄せ られた、手紙を聞く度に、まだまだたくさんのなつメロ愛好家の方が全国に多いことに驚き且、泣かされました。スポンサーのシンポ工業さん御苦 労様でした。 ご苦労ついでに次のなつメロ企画もお願いします……と。(氏原幸夫「共鳴していただけますか?」,「なつメロ愛好会」会報第15号,昭和 46(1971) 年,p.2、太字は引用者による)
  
 三年数ヶ月もの長い間、多くのなつメロファンに熱狂的な支持を受け、一週一度のこの時間が、生活のカレンダーであり、 生きる支 えであるとまで慕われていたラジオ関東の「この歌・あの人」が惜しまれながら三月一ぱいで終るという。
 この番組の魔力を、なかには、オリジナル原盤で当時のレコードが聴けるという点にのみピントを合わせる者もいたであろう。然しその大半は、 なつメロに対 する深い造詣と、もって生れた豊かな人格とをバックボーンとして、常にユニークな“語り”を展開してこられた宇井さんに絞って憚かるまい。 (浜田正也 「『この歌・あの人』放送終了記念 “宇井昇さんに感謝の集い”に参加して」」,「なつメロ愛好会」会報第19号,昭和47(1972)年,p.7)

 昭和40年代(1965〜1974年)当時、テレビの普及と共に中高年層のラジオ離れが進行しており、特に深夜番組は10代の若者向けの場に なっていた が、ラジオ関東の「この歌あの人」は、これら中高年層にアピールするための番組として機能したであろう。(76)
 テレビ番組では、大阪の読売テレビ制作の「帰ってきた歌謡曲」が、「第二のなつメロ番組」として有名である。当時の朝日新聞に番組の紹介記事が 載ってい る

‘なつメロ’番組
♪    ♪
第一回は軍歌と戦時歌謡特集
 最近全盛の“なつメロ”の良さを若い人たちに紹介する番組で、第一回の今夜は、軍歌と戦時歌謡特集。まず昨年暮れの衆議院選挙をきっかけ に、タレント業 をやめた南道郎が登場、軍歌に盛られた人間性を強調、東海林太郎、霧島昇がそれぞれ「あゝ草枕幾度ぞ」「月月火水木金金」を歌ったあと、和田 アキ子がブ ルース調で「戦友」を歌う。
 その他「麦と兵隊」「若鷲の歌」「同期の桜」など。(『朝日新聞』昭和45(1970)年4月2日朝刊,p.17)

 この番組は昭和45(1970)年4月から昭和49(1974)年3月まで、関東地方でも東海地方でも一貫してずっと毎週木曜日22時30 分〜22時 55分に放送している。上記引用には「“なつメロ”の良さを若い人たちに紹介する番組」とあるが、対象視聴者層は「なつかしの歌声」と同じである と考えて よいであろう。この番組も、「なつかしの歌声」同様に往年の歌手をスタジオに呼び、歌を歌ってもらうものであったと見られる。制作は関西の読売テ レビであ るが、関東地方では日本テレビが、東海地方では中京テレビが放送しており、こちらも全国に放送されていたのであろう。この番組に関しても、ビデオ リサーチ 社名古屋支社で名古屋地区の視聴率データを閲覧することが出来たので、以下にリストとして掲載しよう。
日時
平均視聴率(%)
昭和45(1970)年4〜6月
不明
昭和45(1970)年7〜9月
不明
昭和45(1970)年10〜12月
不明
昭和46(1971)年1〜3月
2.7
昭和46(1971)年4〜6月
2.7
昭和46(1971)年7〜9月
2.8
昭和46(1971)年10〜12月
3.8
昭和47(1972)年1〜3月
4.4
昭和47(1972)年4〜6月
4.4
昭和47(1972)年7〜9月
5.2
昭和47(1972)年10〜12月
4.5
昭和48(1973)年1〜3月
3.9
昭和48(1973)年4〜6月
4.4
昭和48(1973)年7〜9月
5.5
昭和48(1973)年10〜12月
6.4
昭和49(1974)年1〜3月
5.6


 以上のように、特に深夜遅くに放送しているというわけでもないのに、「なつかしの歌声」と比べると著しく視聴率が低いということが分かる。これ に関して は、昭和40年代(1965〜1974年)当時、中京テレビの番組自体が他のテレビ局と比べて極端に平均視聴率が低かったということが原因となっ ているで あろう。中京テレビは昭和44(1969)年4月にUHFテレビ局としてテレビ放送を開始しているが、当時主流であったVHFテレビ局ではなかっ たため、 中京テレビを受信できない家庭が相当数存在していたのではないかと推測する。(77)関西地方や関東地方ではもっと視聴率が高かったのではないだろうか。
 東京12チャンネルでは、「なつかしの歌声」の他に「あゝ戦友あゝ軍歌」という番組が昭和44(1969)年8月にスタートしている。これは、 同年の9 月までは毎週日曜日22時30分〜23時に放送し、翌10月から昭和46(1971)年3月までは毎週土曜日22時〜22時30分に放送し、終了 してい る。これは、「軍隊生活を体験した芸能人たちをゲストに迎えて軍隊生活の思い出話、戦友との対面、軍歌などを披露する」(78)という番組であり、純粋な 歌番組ではなかったが、世間からは「なつメロ」番組として認識されていたようである。

“ナツメロ”がテレビ、レコード界でブームを呼んでいるが、なかでも「なつかしの歌声」を放送している東京12チャンネ ルでは、 八月三日スタートの新番組として、またまた「あゝ戦友あゝ軍歌」と題する歌謡バラエティーを放送する。
 この番組は、戦前戦中の軍歌を中心に構成し、登場するゲストの思い出深いご対面を折り込んだもの。ナツメロファンや戦争体験者なら必見の番 組というとこ ろ。放送曜日も日曜日夜十時三十分からというのも泣かせるところ。
“ナツメロ”番組では「歌謡百年」「なつかしの歌声」など長年の実力を持つ東京12チャンネルだけに出演する往年の大歌手も、東海林太郎、藤 山一郎、灰田 勝彦、霧島昇、勝太郎、市丸、渡辺はま子、並木路子など。このほか現役では、水前寺清子、水原弘、渥美清、アイ・ジョージ、コロ・ラティー ノ、二期会、 ローヤル・ナイツなども出演する。
 第一回の放送(八月三日)でのゲストは東映スターの鶴田浩二。鶴田は、かつて海軍航空隊員であった。当時の思い出話、戦友とのご対面などを 披露するほ か、出演歌手と共に大いに軍歌を歌いまくるというもの。司会は木島則夫が担当する。「戦前派ばかりでなく、戦後派にも感動を持って見てもらえ るように制作 します」というのは局側の話。そんな配慮が人気スター鶴田浩二のゲスト出演にも現われているといえよう。(「『あゝ戦友あゝ軍歌』◆軍歌と思 い出でつづる 新番組◆」,『週刊TVガイド』昭和44(1969)年8月8日号,p.136)

 もっとも、司会者の木島則夫は、「戦果を語ったり、単なる懐古趣味に流れるんではなく、軍歌に明け暮れたボクらの青春をもう一度、フランクに見 直そう」 (79)というのがこの番組の目的 であると述べ ている し、反戦の思いから戦争をふり返ることがこの番組の主要内容であるから、この番組はむしろ「私の昭和 史」や「人に歴史あり」のような“昔語りの番組”に近いであろう。(80)「な つメロ」として軍歌も歌われる番組であったと捉えるのが良いであろう。
 NHKでは昭和41(1966)年3月にテレビ番組の「黄金のいす」が終了して以来、これといった「なつメロ」番組は登場していなかったが、昭 和44 (1969)年から毎年夏に、「夏の紅白」と銘打って「なつメロ」の特別歌番組である「思い出のメロディー」を放送しており、現在まで続いてい る。昭和 47(1972)年7月15日号の『グラフNHK』には、「<思い出のメロディー>は、四年前の昭和四十三年の元旦に、明治百年を記念して<百年 の歌声> を放送したのがそのはじまり。当時、予想をはるかに上回る人気で、放送終了後『ぜひ来年も』という電話が殺到、同じ希望の手紙も翌日わんさと舞い 込んだ。 そして翌四十四年の夏から、<思い出のメロディー>と題して登場、以来、“暮れの<紅白>に対する”夏の<紅白>といわれ、大ぜいのファンに親し まれてき た」との記述が出ている。(81)こ れに対し て、W氏の 話によると、「思い出のメロディー」の原型となったのは、昭和28(1953)年3月22日 にラジオ第一放送で放送した「歌の展覧会」という番組であるとのことであった。(82)しかしながら、いずれにせよ、「思い出のメロディー」の原型となっ た番組が存在しているという事実は、世間には広く知られていなかった。「思い出のメロディー」の第1回の放送が昭和44(1969)年という、東 京12 チャンネルの「なつかしの歌声」の放送がスタートした翌年というタイミングであったために、世間からは東京12チャンネルの二番煎じであると酷評 された。

NHKの“夏の紅白”は二番煎じ!!
 なつ・メロ・ブームの火付け役はなんといっても東京12チャンネルの「なつかしの歌声」。(中略)東京12チャンネルが開拓したこの分野に 昨年はNHK もくり出してきた。いわゆる“夏の紅白”である。
「NHKのこういうやり方は、しかし評判よくなかったね。いいところだけいただこうという剽説根性だからね。東京12チャンネルの百回記念と 真っ正面から ぶつかるわけですよ。いわば果たし状」(東京12チャンネル・三枝孝栄プロデューサー)
 なつ・メロ歌手の間にも、こういうNHKのやり方を面白く思わない気骨のある人もかなりいて、NHKは、員数を揃えるのに四苦八苦してい る。ディック・ ミネなんぞは、NHKのたっての出演依頼を蹴って、昨年は家族とホンコンへ遊びにいっちゃった。
「NHKともあろうものが、人の上前をはねるようなまねをして、やることがきたない」
 三拝九拝して、ようやく引っ張り出しているのがNHK。そういう情勢に対する懐柔策として、このところNHK「歌の祭典」(日曜日)では、 淡谷のり子、 伊藤久男など大御所を呼んで出演させていた。
 それにひきかえ、得意なのは、いまやなつ・メロの牙城の東京12チャンネル。恩を売った上に番組の評判も上々。すっかりウケに入っているの である。 (「超ワイド特集 生きていた想い出の歌謡曲――第1部 爆発したなつ・メロブームの稼ぎ頭は?」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,pp.29-30)

 経緯は不明であるが、実際、昭和44(1969)年の第1回の放送には、東海林太郎、ディック・ミネ、伊藤久男、近江俊郎、田端義夫、林伊佐緒 といった 人物が、昭和45(1970)年の第2回の放送には、ディック・ミネが出演していない。(83)しかしながら、「思い出のメロディー」は、時の「なつメ ロ」ブームに乗る形で、毎年高視聴率を稼いだ。(84)ビ デオリサーチ社中部支社で閲覧した名古屋地区の視聴率の変遷は以下の通りである。なお、東海地方 でも、関東地方と同一日時で中継されている。
日時
視聴率(%)
昭和44(1969)年8月2日
31.6
昭和45(1970)年8月8日
31.0
昭和46(1971)年
不明
昭和47(1972)年
35.6
昭和48(1973)年
25.4
昭和49(1974)年
31.1
昭和50(1975)年
29.2


 昭和44(1969)年と昭和45(1970)年の「思い出のメロディー」では、明治・大正・昭和の3代にわたる思い出の歌、なつかしのメロ ディ―を集 めた特集となっており、明治時代と大正時代も範囲に入れているという点で、NHKラジオ「なつかしのメロディー」や昭和43(1968)年元日放 送の「百 年の歌声」からの連続性が感じ取れる。出演は、戦前デビューの往年の歌手の他、荒井恵子、三橋美智也、フランク永井、都はるみ、北島三郎、森進 一、坂本 九、森山良子など、若手〜中堅の歌手も出演している所が、「なつかしの歌声」とは差異を感じさせる。昭和46(1971)年の第3回からは、明 治・大正時 代は省略し、昭和期以降のものを放送するようになる。
 出演する歌手の中には、葦原邦子(第2回)、杉狂児(第2回)、田谷力三(第2回)、美ち奴(第2回・第7回)、三木鶏郎(第5回)、羽衣歌子 (第7 回)のように、珍しい顔ぶれが並ぶ所も、「なつかしの歌声」や「この歌あの人」などと共通する点である。
 以上、「なつかしの歌声」以降、「なつメロ」ブームの中で派生したテレビ・ラジオの主な「なつメロ」番組を見てきたが、「なつかしの歌声」も含 めて共通 している点は、歌単体を取り出してくるのではなく、オリジナルのレコードを吹き込んだ往年の歌手にスポットを当てて再評価していこうという流れが 存在する という点にある。(85)
 次に、レコードに関しては、前章でも書いたように、昭和30年代(1955〜1964年)から「なつメロ」ものは存在しているが、昭和40年代 (1965〜1974年)に入って「なつメロ」ブームが始まると、新たにステレオ録音で、もしくはSP音源の復刻という形で、往年のオリジナル歌 手が吹き 込んだものが多くなってくる。この点に関して、新聞記事からも確認しておこう。

 最近のレコード界で“なつかしのメロディ―”が盛んだ。往年の歌手たちが人気を集めた歌を再録したレコードがしきりに 発売さ れ、着実な売れ行きだ。
 なつメロものは、かつての映画スター高峰三枝子のリバイバル曲集「高峰三枝子歌のアルバム一、二集」をはじめ(中略)霧島昇(中略)伊藤久 男(中略)岡 本敦郎(以上コロムビア)(中略)小畑実(中略)東海林太郎(中略)灰田勝彦(中略)(以上ビクター)、(中略)東海林太郎(中略)岡晴夫 (中略)をはじ めとする津村謙、小畑実、大津美子、林伊佐緒、松島詩子などの“歌のアルバム”シリーズ(以上キング)。それに(中略)ディック・ミネ(中 略)菊池章子 (中略)菅原都々子(中略)などと目白押しの状態だ。
 ほかに伊藤久男、東海林太郎、二葉あき子らの歌をシングル盤で発売する“ペル・エポック・シリーズ”(コロムビア)や、いろんな歌手を集め た「歌は流れ る」(テイチク)なども出ている。
 軍歌のたぐいは、戦後タブーの状態だった。が、三十六、七年ごろ(中略)(以上キング)や(中略)(以上テイチク)などが発売された。
 これらは演奏ものよりボーカルものに反響が強かったというが、ここ一、二年は各社ベテラン歌手からグループ・サウンズまで登場させている。
 売れ行きのほどは「いつも在庫は数十枚。それがいつの間にか売れる。地味だが安定している」(銀座の楽器店の話)そうだ。内容的には「戦 友」「麦と兵 隊」など哀調を帯びたもの、「ラバウル小唄」「ズンドコ節」など軽快なものが喜ばれているが、今の歌謡曲は若向きばかり。軍歌は青春時代がな つかしい、歌 いやすいなどの点で迎えられているようだ。
 歌う方では、森茂久弥(中略)(コロムビア)渥美清(中略)(ポリドール)水前寺清子(中略)(以上クラウン)など。(中略)演奏ものでは (後略) (「なつメロ・レコード 軍歌に脚光 歌いやすさと思い出と」,『朝日新聞』昭和44(1969)年2月20日夕刊,p.9)
  
 一方のレコード各社。終戦後流行した歌の企画は、これまでにもかなり出ていて、さらに昭和十年代から初期の方へとさか のぼる傾 向がある。
 このほど出たのでは「名盤・珍盤・秘蔵盤」第一巻(ビクター、四枚組)がある。昭和三年から十四年までに親しまれた流行歌(はやり歌)、歌 曲、民謡、寄 席ものなどを収めた。(中略)
 大型ものでは“オリジナル原盤による”とうたった「流行歌と共に40年」(テイチク)がある。「戦前・戦中編」「戦後編」の二巻にわかれ、 それぞれ五枚 組という大がかりなもの。(中略)
 同じ大型盤では「心に生きる懐かしの歌ごえ」(ポリドール、十枚組)が出ている。(中略)
 ほかに個々の歌手に焦点を当てたLPも多数ある。(中略)
 キングも同様に“オリジナル原盤による”とうたって、童謡から戦時歌謡などまで出している。(「夏は“なつメロ”の季節――テレビ番組・レ コードで企画 ずらり」,『朝日新聞』昭和48(1973)年8月3日夕刊,p.9)

 レコード各社が相次いで「なつメロ」ものの企画を出していたということが分かる。昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブーム時 において も、若手〜中堅歌手に歌わせたものや演奏ものも依然として出回って売れていたが、往年の歌手によるものの需要も出てきたということが伺えよう。

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