ロイド眼鏡、向って右側の髪の毛をパーマで縮らせたスタイル、そして「赤城の子守唄」――。三十すぎた人には一目でわ かる東海 林太郎(マーキュリー)も、いまの二十代にはピンとこない。
来る七月三十日から三日間、浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活二十五周年記念講演」が開かれるそうだが、これは“夢よもういちど”…のデ モンストレー ションなのかもしれない。(「人気に背かれた三歌手――忘れかねた全盛時代」,『週刊東京』昭和32(1957)年6月1日号,p.60)
りっぱなことのついでに、もっとりっぱなことを東海林について書いて置こう。現代の歌手に対する、よい指針にもなると 思 う。
東海林は、歌詞をもらうと「ありがとうございます」といただいて、それを持って帰り、机の前にすわって、じっと歌詞を研究するのである。
彼は日本語の間違い、文法の間違いなんか、辛抱できなかったのである。その上で詩の内容を味わい、そこから出て来るイメージをつかみ取るま で読むの である。わからない所が一文字でもあれば、それをきびしくききただして来る。曲の場合でも同様であった。作詩、作曲家が最も恐れた歌手だっ た。(中略)
私は東海林の歌は作ったことがないが、藤山一郎の場合も同様であった。丁寧な口調だが、しっかりした質問をして来た。時には、どきんとする ことを問 われたこともある。これが本当の姿であると思う。
東海林は吹き込みのスタジオで、練習の間は夏など上着をぬぎネクタイをゆるめて音楽合わせをするが、それができ上がっていざ本番となると、 まずその 前に顔を洗い、ネクタイをしめ直し、きちんと上着を着て出直して来る。「お願いします」とバンドに敬礼をして、マイクの前に例の「気をつけ」 の姿勢をとる のであった。この時はもう、詩も曲もすっかり覚えていて「自分の物」にし切っていた。
これがそのまま、彼の歌謡に対する姿勢であったというべきだろう。また闘病二十年、直腸ガン手術四回という奇跡的なことも、この人生姿勢が 可能にし たといえるのである。(藤浦洸「レコード太平記28――東海林太郎A」,『読売新聞』昭和45年3月30日夕刊,p.9)
彼は歌に対しては実にきびしく真剣だった。彼と私の家とはその当時草原をへだてて五、六十bほど離れていた。毎朝早く から彼の 発声練習の大きな声が 私の寝室をおそった。彼は吹込みのたびに自分が納得するまで何回でも練習を私に強要した。しまいには、私のほうで面倒くさくなったり悲鳴をあ げることさえ あった。
歌に対して、こんなにまで情熱と真剣さのある歌手が今の時代に果して何人いるだろう。直立不動の歌い方は彼のトレードマークのように思われ ていた が、これは決してわざと作った姿勢ではなく、彼が最初に私の「河原月夜」を吹込みした時からであり、さらにさかのぼってはレコード会社のテス トを受けてい たころからの姿勢であった。ステージにおけるゼスチュアなどは彼には問題ではなかった。
ただ真剣に歌うということだけが彼の生きがいであり人生だった。歌をゴマ化し、大衆にこびるようなゼスチュアなどは彼のもっとも軽べつする ことで あって、やる気もなければ、また、やれる器用さも彼は持っていなかった。いわば歌以外には彼ほどブキッチョな歌手も珍しかったといえるだろ う。(中略)
歌ひとすじに生きぬく決心をさせ、一生涯を悔いのないものとして全うした大きな原因はこの「悟り」にあったものと私は思う。(田村しげる 「『歌曲も 流行歌も同じ』故東海林太郎、信念の一生」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月6日夕刊,p.9)
テレビの登場で、歌謡曲の寿命が縮まり、うたかたのように消えていく歌手の多いなかで、「歌の道」四十年の東海林太郎さ んの死 は、この歌手がどのように、長くひとびとの胸を揺さぶり続けたか、を改めて思い起させた。(中略)東海林さんの危篤状態が続いているとき、こ こで東京12 チャンネルのテレビ番組「なつかしの歌声」のビデオ取りがおこなわれていた。(中略)
「こんなことをいっちゃ、ここにいるみなさん方に悪いけんど、やはり先生が欠けたんじゃ、このなつメロ番組もグッと印象が薄まってしまう な」といったの は司会のコロムビア・トップ。(中略)
淡谷のり子さんが舞台から戻ってきた。「何べん、何百ぺんも同じ歌をきちんと歌う。そんな歌い手の時代は、これで終ったのね。真剣な歌の時代 は……」 (「歌謡曲 大衆の心に生きる道――東海林太郎さんの死」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月5日朝刊,p.22)
なつ・メロ歌手の一番の稼ぎ場所はキャバレー、クラブのステージ。名の通ったなつ・メロ歌手ならほとんどが月に二十日 以上も 歌っている。田端義夫、淡谷のり子、榎本美佐江などといったところのクラスは「月に四十五日も働いています」ということになる。ということ は、昼はテレビ 出演、午後から慰安会、夜はキャバレーというぐあいに一日に二ヵ所も三ヵ所も回る。
キャバレー、クラブでの出演料が、一晩ツウ・ステージで八万円から十万円が相場。少なく見積っても、月の収入は二、三百万円になる。
なつ・メロ歌手といえば、世間では“定年退職歌手”ぐらいに思われがちだが、どうしてどうして、キャバレー、慰安会では現役歌手以上にもて はやされてい るのである。(中略)
「このごろは“なつ・メロ・ブーム”というんで、お客さんも歌手をよく知っている。売れっ子歌手を百万、二百万出して呼ぶよりは十万円ぐら いで“なつか しのメロディ―”を聞いてもらう方が、安くて、しかも喜ばれるんです」
キャバレー、クラブにすれば、安い買いもので、しかもネームバリューは格別、なつ・メロ・ブームの余波はこんなところもうるおしているので ある。(「超 ワイド特集 生きていた想い出の歌謡曲――第1部 爆発したなつ・メロブームの稼ぎ頭は?」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,p.29)
歌手名 |
勲章・褒章名 |
受賞した年 |
東海林太郎 |
紫綬褒章 |
昭和40(1965)年 |
勲四等旭日小綬章 |
昭和44(1969)年 |
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勲三等瑞宝章 |
昭和47(1972)年 |
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赤坂小梅 |
紫綬褒章 |
昭和49(1974)年 |
勲四等宝冠章 |
昭和55(1980)年 |
|
淡谷のり子 |
紫綬褒章 |
昭和47(1972)年 |
勲四等宝冠章 |
昭和54(1979)年 |
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安西愛子 |
勲二等宝冠章 |
平成元(1989)年 |
市丸 |
紫綬褒章 |
昭和47(1972)年 |
勲四等宝冠章 |
昭和56(1981)年 |
|
伊藤久男 |
紫綬褒章 |
昭和53(1978)年 |
勲四等旭日小綬章 |
昭和58(1983)年 |
|
近江俊郎 |
勲四等瑞宝章 |
昭和63(1988)年 |
菊池章子 |
勲四等瑞宝章 |
平成12(2000)年 |
霧島昇 |
紫綬褒章 |
昭和54(1979)年 |
勲四等旭日小綬章 |
昭和59(1984)年 |
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小唄勝太郎 |
紫綬褒章 |
昭和46(1971)年 |
勲四等宝冠章 |
昭和49(1974)年 |
|
田端義夫 |
勲四等瑞宝章 |
平成元(1989)年 |
ディック・ミネ |
勲四等旭日小綬章 |
昭和54(1979)年 |
並木路子 |
勲四等瑞宝章 |
平成11(1999)年 |
灰田勝彦 |
勲四等瑞宝章 |
昭和57(1982)年 |
林伊佐緒 |
紫綬褒章 |
昭和50(1975)年 |
勲四等旭日小綬章 |
昭和58(1983)年 |
|
藤本二三吉 |
紫綬褒章 |
昭和43(1968)年 |
勲四等瑞宝章 |
昭和50(1975)年 |
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藤山一郎 |
紫綬褒章 |
昭和47(1972)年 |
勲三等瑞宝章 |
昭和58(1983)年 |
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国民栄誉賞 |
平成4(1992)年 |
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従四位 |
平成7(1995)年 |
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二葉あき子 |
紫綬褒章 |
昭和57(1982)年 |
勲四等瑞宝章 |
平成2(1990)年 |
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松島詩子 |
勲四等瑞宝章 |
昭和53(1978年) |
渡辺はま子 |
紫綬褒章 |
昭和48(1973)年 |
勲四等宝冠章 |
昭和56(1981)年 |
最近なつメロが盛んに唄われている。良い傾向だと喜こんでいるのは、私一人ではないと思う。(中略)又これに輪をかい たように 若い歌手の往年のなつメロヒット曲を発売、これ又相当な売行だときく。題して都はるみの流し唄、北島三郎なつかしの演歌、森進一古賀メロ ディーを唄う、等 々私達なつメロ愛好家にとっては、けだし万々歳である……。それなのに何是か物足りなさを感じる、どうしたことか。それはやはりなつメロは元 唄(原盤)で と言う私の本来の好の(ママ)みからであろう。
新しい技術とすばらしい設備で効果を挙げ吹き込まれた唄も、それは一介の道化師の歌芸としか受けとれない。なつメロはやはり昔のままの多少 針音はしても 原盤を生かしたLP盤で発売してほしいものであると考える由遠。(氏原幸夫「私のたわごと」,会報第8号,昭和45(1970)年,p.3)
テレビ又は各社のレコードメーカーで懐つ(ママ)メロにも関心を持つよ うにな り、現在の歌手に昔し(ママ)の歌を唄わせ曲も今式に編曲して売り出しているのがあ るが、ど うもピンと来 ない感がある。(中略)偶然にも私の欲いのがあった。同一人物が唄ったものだから、今は技術も進歩しているから定めし好いだろうと購入したの が何枚かあり ますが、如何せん只音が好いだけで曲は編曲され唄いかたその調子も異うのでがっかり。随分無駄金を使ってしまいました。同一人物でも、この調 子だから、他 の歌手だったら押して知るべし。(中略)このことはテレビでもいえる確かに原曲は同じだが、どうも唄い方も伴奏も昔し(マ マ)のとは一寸異う。希には似かよったのもあるが大部分はわれわれ懐つ(ママ)メ ロファン に本当の懐つ(ママ)メロ感 を味わうには何だかものたりない。(鈴木竹蔵「私しの懐メロ感 (上)」,会報 第19号,昭和47(1972)年,p.10)
特に若い人達にも「なつメロブーム」が押し寄せている今日の現状です。五十代を過ぎ、停年間近な我々なつメロマニアに とりまし ては誠に喜ばしく、若者のカーステレオでなつメロを聞くにつけさながら旧友にでも巡り逢った様な親しみを感じます。然し聞いてみて歌手が戦後 生れの若輩歌 手だったらがっかりします。と云うのは今の若輩歌手になつメロを唄う資格はないからです。
理由は現在の録音は信用できず録音技術の向上により下手糞の歌手の唄でもどんなボロでもテープの魔術によりツギハギでつくろいごまかしの機 械音化された ニセ物だからです。
晴着姿で軍歌を唄う女性歌手の非常識さもさること乍らへんにバイブレーションをつけ、国籍不明のアクセントで然も手振り腰振り空手試合もど きゼスチャー は何としても不愉快です。
外国ナイズされた変な編曲で奇声に等しい歌はなつメロのよさをブチこわす何物でもありません。テープ出現以前のかっての往年のベテラン歌手 の吹込はやり 直しのきかない真剣の一発勝負、実力本意の録音だったからです。
今の機械音楽化した若手歌手吹込のなつメロのLP及びテープは我ら真のなつメロマニアには無用の長物でこそあれ何ら心の糧とはならず徒に気 分を不愉快に するのみです。
真のなつメロとはどんなに針音があろうが声がかすれていようがSPの原盤より録音した物を聞くことこそ最高の醍醐味です。
原盤でなければ真の演奏芸術を聞く事は不可能です。(渡辺幸治「一日四回の食事を」,会報第23号,昭和48(1973)年,p.10)
何といっても昔し(ママ)の歌は詩、曲とも良いのが多い(中略)それ に比べ現 代のは非常にむずかしい唄いにくい、表現も歌手が身振手振しながら唄う本当に現代の歌手は大変だと思う。いわば現代の唄は容姿、表情を見なが ら聞く唄とい うのでしょうか故に何十年も残るものがない。(鈴木竹蔵「私しの懐メロ感(上)」,会報第19号,昭和47(1972)年,p.10)
近ごろの歌謡曲を聞いていて感じることは、そのほとんどが「歌う」という範疇の中に入っていないことだ。それは「ささ やく」か 「どなる」かあるいは「うなる」かといったものばかりである。つまり、真の意味の「歌」ではないということだ。(中略)かって、小林千代子 が、あるステー ジで、わざわざマイクから離れて歌うのを聞いたことがあるが、いま、そういう「実力」の持主は一人としていまい。(中略)
こういう歌とはいえない歌を毎日テレビやラジオで聞かされている故もあってか、古い歌手のオリジナル盤などを聞くと、何か救われた思いがす る。少くとも そこには、まともな「歌」がある。何よりも声そのものの質がいい。二葉あき子やミス・コロムビアの初期の歌など、文字通り「玉をころがす」よ うな美声であ る。
ところが、いまの歌手たちはむしろ悪声、奇声が多い。「ささやく」「どなる」「うなる」では、美声などはいらないからだ。(中略)こんな 「げてもの」ば かり競っていては、しまいに歌そのものの喪失時代が来るだろう。現に、最近の歌謡曲――そして歌手もだが――の寿命の短さはどうか。(中略)
いわゆる「なつメロ」が、大人たちばかりでなく、若い層にも人気があるというのはそこに真の「歌」があるからだろう。(能戸清司「歌謡曲げ てもの時代 ――なつメロの真の価値――」,会報第24号,昭和48(1973)年,p.1)
この度、私が趣味の一環として浅い人生の中で共に生きてきた、“懐しのメロディー”題して“懐メロ”が有効に生かされ る唯一の 機関、そして同好の人々と楽しく交わる場としての“懐メロ愛好会”に入会できましたことは、誠に嬉しく、有難たく思っている次第です。(中 略)
現在の歌謡曲と昔の歌謡曲とは歌詞、メロディーの違いも多々ありますが、基本的に異なる所は歌い手自身の気持ちであり、歌に対する思いやり ではなかろう かと思うのです。決して、現在の歌謡曲は“悪い”と一概に否定は出来ないし、私自身もその様に努めておりますが、正直の所申しまして良く思っ ていない状態 です。(中略)
つい最近の「文芸春秋」に東海林太郎先生の「現代の歌謡曲は真の歌ではなく又、歌い手は真の歌い手でもなく、特にグループ・サウンズと称す るものの歌は 歌ではなく一つの音にすぎない。」という記事が載っておりましたが、正しくその通りだと思いました。
“懐メロ”に関しては何時頃から興味を覚えたかと申しますと、それははっきりと自分でも判らず、限定して時期をお伝えすることは出来ませ ん。(中略)と にかく“懐メロ”を愛するという生天的素質を持って生まれたのだと思う外はありません。(中略)
私が人前で始(ママ)めて“懐メロ”を歌ったのが高校三年の秋、クラスのコンパの時でし た。皆がその当 時の流行り歌を歌う中で私は担任の先生に頼んで一緒に伊藤久男の軍歌「暁に祈る」を歌ったことがあります。(日本大学4年平井建治「“ナツメ ロ”想うまま (上)」,会報第2号,昭和44(1969)年,p.4及び「“懐メロ”想うまま(下)」,会報第4号,昭和44(1969)年,p.3)
数多い歌謡番組み(ママ)の中で、昔の歌が聞ける唯一の番組は東京 12チャン ネルの「なつかしの歌声」、すばらしい番組だと思います。
私たち若い者にはあまり歌われない歌が出てくる。しかし、往年活躍された歌手の顔を見ながらヒット曲を聞くと、必ず胸にジーンとはねかえる ものを感じ る。歌は生きているのである。(中略)
リズム歌謡全盛の現在、なつかしい歌のよさを認める若い層の支持も多いようだ。なぜならば、古いもの程価値があるとはこのことか。(森井勝 也「対称的な 『胸にジーンとくるなつメロ!』『いまの歌は線香花火!』」,会報第6号,昭和45(1970)年,p.1)
東海林太郎の歌は、私のように伊那の故郷を離れて、北信濃の山村で仕事をしている者にとってほんとうに心の支えになっ てくれ る。私は戦後生まれで戦後育ちだから、東海林太郎の歌は、父、母から聞き覚えたりして、ほとんど最近知ったにすぎない。(中略)
私の心の支えをつくってくれた東海林太郎に私は感謝している。東海林の歌はあらゆる面で人々の生活と密着し、支えとなり現在も生き続け ている。(原 俊弘「東海林太郎の歌」,会報第22号,昭和47(1972)年,p.4)
最近の朝日新聞の投書欄に一四才の中学生が次のような意味のことをいっていた。
即ち先ずいしだあゆみの「今日からあなたと」をとりあげ歌詞を紹介して……こんなわけのわからない歌がヒットしている不思議さを述べ……こ の歌に限らず 最近流行している歌謡曲の多くは実にくだらない歌に思われてならない。美くしいメロディーにしっかりした歌詞の、昔の歌謡曲をくらべて今の歌 謡曲の何とく だらない事でしょう。…中略…昔の歌謡曲が社会的なものや、当時の人々の気持を表していたのに対し、今の歌謡曲の多くが、そんなものとは別の 恋とか愛とか をテーマにしたものばかりで、その歌詞も昔の叙情詩的なものと違って、ある特定の単語を並べたよう(ママ)簡 単なものがほとんどで、ひどいのになると女の名前だけの歌詩もあります。…中略
これは一四才の中学生の心に写った偽のない現代の歌謡界の姿であると推察され、(後略)(岩本博舟「想い出の懐メロ歌手(第二回)」,会報 第8号,昭和 45(1970)年,p.4)(94)
拝啓 毎週この時間を楽しみにしている19歳の学生です。私は、現在の歌謡曲よりもなつメロの方が大好きです。第一 に、今の歌 手と比べて、とても歌が上手く、又、メロディーが非常に綺麗だと思うからです。番組の構成も大変良く、あまり知られてない曲から大ヒット曲ま で幅広く取り 上げられ、ゲストとの対話も、昔の苦労話など聞かせてくださったりしてバラエティーに富み、内容豊かな番組だと思います。どうかこの番組がい つまでも続き ますよう、お願い致します。(ヤナギマサト「お便りコーナー」,『この歌あの人』昭和45(1970)年5月3日放送(関東地区),引用文は 引用者の聞き 取りによる)
福田 ぼく、四年ほど前は長崎の 佐世保に 住んでいたんですけど、“なつメロ”が好きで、中学一、二年生のころから、ラジオでなつメロ番組をききはじめたんです。それとたまたま父が、 勝太郎の「明 日はお立ちか」のSPをもっていて、その裏に、一色さんの「昭南島ぶし」が入っているのをきいてすっかりファンになってしまったんです。
一色 すると、福田さんはわざわざ佐世保からいらっ しゃったんです か。
福田 いや、ちがいます。佐世保では、好きな“なつメ ロ”が思うよ うにきけなくてそうしたら友達が「大阪へゆけば、なつメロ番組をいろいろなラジオで放送している」というので、大阪で就職したのです。ですか らいまは東大 阪に住んでいます。それでこの間、近畿放送の「この歌あの人」で、一色さんが出て歌っているのをきいて、たまらなくなって。
一色 そうですか、それにしてもお若い、おいくつです か、こんな若 い人がなつメロに、それも私のようなものの歌に興味があるんですかね。
福田 そうなんです。いまの歌をきくとアレルギー症状をおこし、ジンマシンが出るほどです。歳 は二十 二歳、昭和三十年生れです。(中略)
一色 それにしても、福田さんのような若い方が、なぜ 昔の歌が好き なのか、私にはわかりませんね。
福田 やっぱり、昔のうたには、日本の情緒があり、い まの歌からは 求められないものがあるからですね。(「あの人はいま…――歌声は永遠に消えず」,pp.35-36、会話中の太字は引用者による)(95)
(東海林太郎は)若い人の間でも、「本物の芸人」として評判がよかった。「歌謡史研究」というミニコミを出している野 沢あぐむ さん(二七)は「東海林さんの時代は、歌手の人間的側面と歌とが結びついた時代だった。今の歌謡曲は商品だから、東海林さんのような人はもう 出る余地がな い」と残念がる。
若者に人気のあるフォーク歌手、泉谷しげるさん(二四)は「若い人で もきらいだと いう人はいないだろう。あの時代の人に共通した、何かに徹底するという芸人気質が感じられるからだ。でも、歌そのものはどうしても聞きたいというものじゃなかった。そ れがいいとい えば、それまでだが、いつも鼻歌で終ってしまい、心の歌になっていなかった」という。また、ロックバンド「頭脳警察」のトシ君(二一)は「あ あ、あの直立 不動のおじさんね。歌はただ、古くて、古くて……」。(「歌謡曲 大衆の心に生きる道――東海林太郎さんの死」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月5日朝刊,p.22、冒頭の括弧内・太線は引用者に よる)
*NHK「若いこだま」班が都内二十大学でヤングのナツメロ・アンケートをしたところ、軍歌からビートルズまで千差万別 だった が、上位には「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」などテレビ主題歌が名を連ね、テレビ文化の申し子世代を象徴。歌手は加山雄三、沢田研 二が双へき だった。その一方、父親ゆずりか東海林太郎、霧島昇などにも人気があって、古さも重要なファッションポイント。ビートルズで育ったような世代 だがコンパで 歌うのは「達者でナ」「人生劇場」「高校三年生」。(「ナツメロはTV主題歌」,『朝日新聞』昭和52(1977)年12月7日号朝 刊,p.24)
涙ながらにうたう悲しい思い出。熊本市内で飲食 店を経営 するAさん(39歳)は、森進一の『おふ くろさん』 の中に、自分の母 の面影を探ってしまうという。
《母が死んだのは、私が7歳のときです。小学五年のころ、近くの夜店のダンゴ屋さんに、母とそっくりのおばさんがいました。私は毎晩のよう に、そのダンゴ 屋に出かけました。母が恋しかったのです。
昨年の『紅白』で、森進一さんが『おふくろさん』をうたったとき、私はこらえ切れずに涙を流してしまったものです。子供たちが心配して、しまいにわけを聞きます。しかし、この『お ふくろさん』を 聞くときの悲しさだけは、だれに話してもわかってはもらえないでしょう。》(中略)
さて、こんどNHKにリクエストされた曲数は、ざっと1500曲あっ た。78 万3210通のハガキの3分の2が、女性からのものだ。
NHKでは、その中の上位100曲を選んだ。それからまた、50曲にふるいをかけたものが、ことしの『思い出のメロディー』でうたわれる曲 目ということ になった。
その上位5曲をあげれば、@『おふくろさん』、A『悲しき口笛』、B 『高校三年 生』、C『影を慕いて』、D『人生の並木路』ということになるらしい。(中略)
今回、曲目を選んだ主役は視聴者になる。しかも見渡したところ、ことしの選曲にはきわだった特色がある。
“思い出のメロディー”というには、いささか新しすぎる曲が多いのであ る。
たとえば、リクエストの1位にランクされた『おふくろさん』が、 そ れであろう。昨年の『紅白』に登場したことでもわかるとおり、この曲は46年に発表されている。
わずか3年弱しかたっていない。
このほか、46年に発表されたものとして『また逢う日まで』(尾 崎 紀世彦)と『わたしの城下町』(小柳ルミ子)もあ る。
あるいはこのあたりが、“懐かしのメロディー”と“思い出のメロディー”の違いかもしれない。
「ともかくNHKとしては、コンピューターまで動員して、今後“スタンダード”として残るような曲を選んだつもりです。やはり圧倒的に多かったリクエストは、演歌でしたね」
末盛憲彦チーフ・ディレクターはこういう。この末盛さんの話によると、視聴者から寄せられたリクエストのほとんどが、歌手の指名までしてき ているらし い。(「生まれる前の歌を揃ってうたう野口五郎・西条秀樹のとまどいとある不安――NHK『思い出のメロディー』の放送されない、影の内 幕」,『週刊平 凡』昭和49(1974)年8月8日・8月15日合併号,pp.57-60、太字は本文に沿っている)