3−7 往年の歌手の再評価・権威づけ
 では、実際に「なつメロ」ブームにより、往年の歌手はどのように再評価・権威づけをされていったのであろうか。まず、東海林太郎という一歌手に スポット を当てることから始めよう。

3−7−1 東海林太郎の例
 満州鉄道の職員であった東海林太郎は、昭和8(1933)年に34歳で歌手に転身した。昭和9(1934)年に「赤城の子守唄」で大ヒットする と、「国 境の町」、「旅笠道中」、「野崎小唄」、「麦と兵隊」、「琵琶湖哀歌」と、次々と戦前期にかけてヒットを飛ばした。このように戦前はヒットに恵ま れ、流行 歌の第一線で活躍していた東海林であったが、戦後になると、決定的なヒットに恵まれずにレコード会社を転々とする日々が続いた。私生活でも、昭和 23 (1948)年、30(1955)年、39(1964)年にそれぞれ直腸ガンの手術を行い、昭和28(1953)年には最愛の妻シズを亡くすな ど、苦難の 日々であった。昭和32(1957)年には歌手生活25周年ということで、記念レコードが制作され、華々しく記念公演も催されたが、同年の別の雑 誌記事で は、小畑実、笠置シヅ子と共に、「人気に背かれた三歌手」として紹介されている。

 ロイド眼鏡、向って右側の髪の毛をパーマで縮らせたスタイル、そして「赤城の子守唄」――。三十すぎた人には一目でわ かる東海 林太郎(マーキュリー)も、いまの二十代にはピンとこない。
 来る七月三十日から三日間、浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活二十五周年記念講演」が開かれるそうだが、これは“夢よもういちど”…のデ モンストレー ションなのかもしれない。(「人気に背かれた三歌手――忘れかねた全盛時代」,『週刊東京』昭和32(1957)年6月1日号,p.60)

 東海林太郎が再び世間から注目されたのは、昭和40(1965)年11月に、流行歌手として初の褒章である紫綬褒章を受章したことがきっかけで あった。 当時週刊誌では、「“郷愁の歌手”に訪れた勲章の日――ガンと闘いながら歌一筋に生きる東海林太郎の情熱」(86)、「勲章を胸の流行歌手 東海林太郎――三十三年の歌手生活に命を賭けてきた執念」(87)な どと、特集が組まれている。東海林は褒章を受章したことで、この年の6月に「売れる、 売れないではなく、歌謡界の文化財をたたえる意味で」(88)発 売されたLP盤「歌ひとすじ三十五年・東海林太郎傑作集」が、当時のLP盤の売り上げとし ては最高となる20万枚のヒットとなり、これが12月に第7回日本レコード大賞特別賞を受賞した。この年のNHK「紅白歌合戦」にも、9年ぶりに 復帰出演 を果している。
 このように、東海林太郎は東京12チャンネルとは別の所から再評価を得るようになったのであるが、もちろん彼も「歌謡百年」や「なつかしの歌 声」には何 回も出演して歌を歌っている。「なつかしの歌声」では、東海林は番組を代表する歌手として認識されていたようだ。『週刊TVガイド』では、夏と大 晦日の特 別番組を放送する際の宣伝写真には、他の歌手と比べても、東海林の写真がひときわ大きく載っている。「なつかしの歌声」で東海林太郎がマイクの前 で不動の 姿勢で歌う姿勢は、「歌を愛し、歌の心と深さを追い求める求道者の姿」(89)として世間から権威的な評価を受けていた。東海林太郎が「なつメロ」ブーム の中で権威づけされた様子が伝わる記事を以下に引用しよう。

 りっぱなことのついでに、もっとりっぱなことを東海林について書いて置こう。現代の歌手に対する、よい指針にもなると 思 う。
 東海林は、歌詞をもらうと「ありがとうございます」といただいて、それを持って帰り、机の前にすわって、じっと歌詞を研究するのである。
 彼は日本語の間違い、文法の間違いなんか、辛抱できなかったのである。その上で詩の内容を味わい、そこから出て来るイメージをつかみ取るま で読むの である。わからない所が一文字でもあれば、それをきびしくききただして来る。曲の場合でも同様であった。作詩、作曲家が最も恐れた歌手だっ た。(中略)
 私は東海林の歌は作ったことがないが、藤山一郎の場合も同様であった。丁寧な口調だが、しっかりした質問をして来た。時には、どきんとする ことを問 われたこともある。これが本当の姿であると思う。
 東海林は吹き込みのスタジオで、練習の間は夏など上着をぬぎネクタイをゆるめて音楽合わせをするが、それができ上がっていざ本番となると、 まずその 前に顔を洗い、ネクタイをしめ直し、きちんと上着を着て出直して来る。「お願いします」とバンドに敬礼をして、マイクの前に例の「気をつけ」 の姿勢をとる のであった。この時はもう、詩も曲もすっかり覚えていて「自分の物」にし切っていた。
 これがそのまま、彼の歌謡に対する姿勢であったというべきだろう。また闘病二十年、直腸ガン手術四回という奇跡的なことも、この人生姿勢が 可能にし たといえるのである。(藤浦洸「レコード太平記28――東海林太郎A」,『読売新聞』昭和45年3月30日夕刊,p.9)
  
 彼は歌に対しては実にきびしく真剣だった。彼と私の家とはその当時草原をへだてて五、六十bほど離れていた。毎朝早く から彼の 発声練習の大きな声が 私の寝室をおそった。彼は吹込みのたびに自分が納得するまで何回でも練習を私に強要した。しまいには、私のほうで面倒くさくなったり悲鳴をあ げることさえ あった。
 歌に対して、こんなにまで情熱と真剣さのある歌手が今の時代に果して何人いるだろう。直立不動の歌い方は彼のトレードマークのように思われ ていた が、これは決してわざと作った姿勢ではなく、彼が最初に私の「河原月夜」を吹込みした時からであり、さらにさかのぼってはレコード会社のテス トを受けてい たころからの姿勢であった。ステージにおけるゼスチュアなどは彼には問題ではなかった。
 ただ真剣に歌うということだけが彼の生きがいであり人生だった。歌をゴマ化し、大衆にこびるようなゼスチュアなどは彼のもっとも軽べつする ことで あって、やる気もなければ、また、やれる器用さも彼は持っていなかった。いわば歌以外には彼ほどブキッチョな歌手も珍しかったといえるだろ う。(中略)
 歌ひとすじに生きぬく決心をさせ、一生涯を悔いのないものとして全うした大きな原因はこの「悟り」にあったものと私は思う。(田村しげる 「『歌曲も 流行歌も同じ』故東海林太郎、信念の一生」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月6日夕刊,p.9)

 このように、東海林太郎は「現代の」歌手との比較の中で美化され、その人生と生き方が「なつメロ」ブームの中で権威づけされていった。
 昭和47(1972)年に東海林が亡くなった際には、新聞や雑誌で大々的に報道され、「一つの時代が終った」(90)という印象を人々に与えた。

テレビの登場で、歌謡曲の寿命が縮まり、うたかたのように消えていく歌手の多いなかで、「歌の道」四十年の東海林太郎さ んの死 は、この歌手がどのように、長くひとびとの胸を揺さぶり続けたか、を改めて思い起させた。(中略)東海林さんの危篤状態が続いているとき、こ こで東京12 チャンネルのテレビ番組「なつかしの歌声」のビデオ取りがおこなわれていた。(中略)
 「こんなことをいっちゃ、ここにいるみなさん方に悪いけんど、やはり先生が欠けたんじゃ、このなつメロ番組もグッと印象が薄まってしまう な」といったの は司会のコロムビア・トップ。(中略)
淡谷のり子さんが舞台から戻ってきた。「何べん、何百ぺんも同じ歌をきちんと歌う。そんな歌い手の時代は、これで終ったのね。真剣な歌の時代 は……」 (「歌謡曲 大衆の心に生きる道――東海林太郎さんの死」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月5日朝刊,p.22)

 戦後に一度は忘れ去られた東海林太郎が、昭和40年代(1965〜1974年)に入って再び世間からの注目を集め、再評価・権威づけされていっ た姿は、 まさに「なつメロ」ブームを象徴するものだったと言えるだろう。

3−7−2 往年の歌手全般の様子
 次に、「なつメロ」ブームの恩恵に預かった往年の歌手たち全般の当時の様子を概観しよう。

 なつ・メロ歌手の一番の稼ぎ場所はキャバレー、クラブのステージ。名の通ったなつ・メロ歌手ならほとんどが月に二十日 以上も 歌っている。田端義夫、淡谷のり子、榎本美佐江などといったところのクラスは「月に四十五日も働いています」ということになる。ということ は、昼はテレビ 出演、午後から慰安会、夜はキャバレーというぐあいに一日に二ヵ所も三ヵ所も回る。
 キャバレー、クラブでの出演料が、一晩ツウ・ステージで八万円から十万円が相場。少なく見積っても、月の収入は二、三百万円になる。
 なつ・メロ歌手といえば、世間では“定年退職歌手”ぐらいに思われがちだが、どうしてどうして、キャバレー、慰安会では現役歌手以上にもて はやされてい るのである。(中略)
 「このごろは“なつ・メロ・ブーム”というんで、お客さんも歌手をよく知っている。売れっ子歌手を百万、二百万出して呼ぶよりは十万円ぐら いで“なつか しのメロディ―”を聞いてもらう方が、安くて、しかも喜ばれるんです」
 キャバレー、クラブにすれば、安い買いもので、しかもネームバリューは格別、なつ・メロ・ブームの余波はこんなところもうるおしているので ある。(「超 ワイド特集 生きていた想い出の歌謡曲――第1部 爆発したなつ・メロブームの稼ぎ頭は?」,『週刊TVガイド』昭和45(1970)年8月7日号,p.29)

 第一線を退いた往年の歌手がキャバレーやクラブなどに地方巡業するのは、「なつメロ」ブームが始まる以前からのことであるが、「なつメロ」ブー ムによ り、その需要が高まった様子が伺える。
 次に、大宅壮一文庫にデータベース化されている、戦前デビューの歌手(東海林太郎、岡晴夫、灰田勝彦、田谷力三、渡辺はま子、ディック・ミネ、 林伊佐 緒、松島詩子、二葉あき子、藤山一郎、伊藤久男、赤坂小梅、市丸、小唄勝太郎)に関する雑誌記事の件数の推移を年代別に見ていったものが以下のグ ラフであ る。(91)



 このうち、戦後一貫して芸能界をにぎわしてきた淡谷のり子を除いたグラフは、下のようになる。



 このように、昭和40年代(1965〜1974年)後半以降に、往年の歌手が週刊誌上を賑わしているという事実が見えてくる。
 最後に、「なつメロ」ブームの中で往年の歌手の社会的地位も見直されてきたという事態を述べておきたい。昭和40(1965)年に東海林太郎が 流行歌の 歌手で初めて褒章を受章して以来、数々の往年の歌手が勲章・褒章を受章した。以下はそのリストである。(92)
歌手名
勲章・褒章名
受賞した年
東海林太郎
紫綬褒章
昭和40(1965)年
勲四等旭日小綬章
昭和44(1969)年
勲三等瑞宝章
昭和47(1972)年
赤坂小梅
紫綬褒章
昭和49(1974)年
勲四等宝冠章
昭和55(1980)年
淡谷のり子
紫綬褒章
昭和47(1972)年
勲四等宝冠章
昭和54(1979)年
安西愛子
勲二等宝冠章
平成元(1989)年
市丸
紫綬褒章
昭和47(1972)年
勲四等宝冠章
昭和56(1981)年
伊藤久男
紫綬褒章
昭和53(1978)年
勲四等旭日小綬章
昭和58(1983)年
近江俊郎
勲四等瑞宝章
昭和63(1988)年
菊池章子
勲四等瑞宝章
平成12(2000)年
霧島昇

紫綬褒章
昭和54(1979)年
勲四等旭日小綬章
昭和59(1984)年
小唄勝太郎

紫綬褒章
昭和46(1971)年
勲四等宝冠章
昭和49(1974)年
田端義夫
勲四等瑞宝章
平成元(1989)年
ディック・ミネ
勲四等旭日小綬章
昭和54(1979)年
並木路子
勲四等瑞宝章
平成11(1999)年
灰田勝彦
勲四等瑞宝章
昭和57(1982)年
林伊佐緒

紫綬褒章
昭和50(1975)年
勲四等旭日小綬章
昭和58(1983)年
藤本二三吉

紫綬褒章
昭和43(1968)年
勲四等瑞宝章
昭和50(1975)年
藤山一郎



紫綬褒章
昭和47(1972)年
勲三等瑞宝章
昭和58(1983)年
国民栄誉賞
平成4(1992)年
従四位
平成7(1995)年
二葉あき子

紫綬褒章
昭和57(1982)年
勲四等瑞宝章
平成2(1990)年
松島詩子
勲四等瑞宝章
昭和53(1978年)
渡辺はま子

紫綬褒章
昭和48(1973)年
勲四等宝冠章
昭和56(1981)年


 「なつメロ」ブームによって世間から再評価された往年の歌手が、社会的にも権威付けされたということが分かる。

3−8 「なつメロ」ブームを支持した層の反応
 次に、「なつメロ」ブームの受け手であった当時の民衆は、このブームに対してどのような反応をしたのであろうか。ここでは、昭和 44(1969)年に発 足した「なつメロ愛好会」の会報の記事から、「なつメロ」ブームの受け手の中でもその中核を担っていたであろう人々の様子を伺うことにする。
 なつメロ愛好会は昭和44(1969)年6月、観光絵はがきの出版業を家業で営んでいた福田俊二が結成した会である。それ以来福田は家業をや め、会の運 営となつメロ研究に没頭し、『あ丶懐しの日本映画主題歌集』(新興楽譜出版社,1972)や『昭和流行歌総覧. 戦前・戦中編』(柘植書房,1994)などの書籍を10冊程度刊行してきた。会の活動内容は会報の作成、往年の歌手を招いての全国大会や各種大会 の開催、 「長崎なつめろ愛好会」「新庄なつメロ会」「湯沢なつメロ愛唱会」「上原敏の会」「田端義夫後援会」などの類似地方団体との交流・パイプ役などで あり、最 盛期には会員数500人近くを数え、地方の各都道府県には支部も存在するほどの全国団体である。会報は、会の発足である昭和44(1969)年6 月を創刊 号として、それ以降2ヶ月に1号のペースで発行されている。記事の投稿には、一般の会員の他、ジャーナリストや歌謡史研究家、中には、往年の歌手 や作曲 家・作詞家といった、送り手の側だった著名人からも寄せられている。平成12(2000)年1月の第177号を最後に、会長の福田俊二が亡くなっ た後は2 年間会報の発行は止まるが、平成14年2月から、「新・全国なつメロ愛好会」として再出発し、以降は3ヶ月に1号のペースで発行されている。 2007年1 月現在の最新号は、復刊第20号(通算第198号)である。
 会報を眺めていてまず目に付くのは、当時まだ現役で活躍していた往年の歌手はもちろんだが、「なつメロ」ブーム以前に既に亡くなってしまった往 年の歌手 を懐かしむ記事が多いということである。以下にその例をいくつか紹介しよう。

・尾崎宏一「北廉太郎君を想う」,会報創刊号,昭和44(1969)年,p.3
・片山久「噫々上原敏!」,会報第2号,昭和44(1969)年,p.2
・福田和禾子「父(松平晃)の想い出」,会報第3号,昭和44(1969)年,p.1
・宇多野好男「松平晃さん苦斗の半生」,会報第5号,昭和45(1970)年,p.2
・レイモンド服部「亡友の思い出@(歌手篇)」,会報第6号,昭和45(1970)年,p.5
・江口夜詩「松平晃君の想い出」,会報第7号,昭和45(1970)年,p.1
・渡辺幸治「楠木繁夫の想い出」,会報第7号,昭和45(1970)年,p.3
・大川晴夫「丸山和歌子と弥生ひばり」,会報第12号,昭和46(1971)年,p.4
・篠崎俊夫「『山の女』弥生ひばりを讃う」,会報第15号,昭和46(1971)年,p.3
・高原正「思い出は敏さんと共に」,会報第16号,昭和46(1971)年,p.5
・久米茂「松平晃氏と太田畔三郎氏を思う――近江八幡の会に出て――」,会報第20号,昭和47(1972)年,p.1
・大川晴夫「佐藤千夜子の世界」,会報第30号,昭和49(1974)年,p.4
・森一也「徳山l回想符(1)――美声・ユーモリスト」,会報第31号,昭和49(1974)年,pp.2-3

 もちろん、
・高橋掬太郎「『片瀬波』のこと」,会報第4号,昭和44(1969)年,p.1
・庵原近之助「なつめろ余話(一)特別攻撃隊のうた」,会報第4号,昭和44(1969)年,p.1
・氏原幸夫「私のなつメロ懐古 その一」,会報第9号,昭和45(1970)年,p.3
・八巻明彦「『戦友の遺骨を抱いて』について」,会報第14号,昭和46(1971)年,p.1・3
・大川晴夫「大阪の歌(上)」,会報第15号,昭和46(1971)年,p.2
・今城英寿「想い出の愛染かつら」,会報第16号,昭和46(1971)年,p.4
・井元清「“長崎物語のこと”」,会報第18号,昭和47(1972)年,p.5
・門田ゆたか「懐かしいあの頃この歌――テイチクの思い出――」,会報第21号,昭和47(1972)年,pp.1-2
・今城英寿「名花一輪“戦ふ花”」,会報第24号,昭和48(1973)年,p.10

のように、歌自体を懐かしむ記事も多いのであるが、往年の歌手を懐かしむ記事の数はそれ以上に目立っているし、歌自体を懐かしむ記事にしても、往 年の歌手 と絡めて展開されているものが多い。中には、北廉太郎、弥生ひばり、丸山和歌子、如月俊夫、三丁目文夫といった、相当なファンでないと知らないよ うなマニ アックな歌手について言及されているものも少なくない。
 次に、「なつメロ愛好会」の会員がどのように当時の「なつメロ」ブームを捉えていたのかということを、実際にいくつか記事を引用することで見て いこう。

 最近なつメロが盛んに唄われている。良い傾向だと喜こんでいるのは、私一人ではないと思う。(中略)又これに輪をかい たように 若い歌手の往年のなつメロヒット曲を発売、これ又相当な売行だときく。題して都はるみの流し唄、北島三郎なつかしの演歌、森進一古賀メロ ディーを唄う、等 々私達なつメロ愛好家にとっては、けだし万々歳である……。それなのに何是か物足りなさを感じる、どうしたことか。それはやはりなつメロは元 唄(原盤)で と言う私の本来の好の(ママ)みからであろう。
 新しい技術とすばらしい設備で効果を挙げ吹き込まれた唄も、それは一介の道化師の歌芸としか受けとれない。なつメロはやはり昔のままの多少 針音はしても 原盤を生かしたLP盤で発売してほしいものであると考える由遠。(氏原幸夫「私のたわごと」,会報第8号,昭和45(1970)年,p.3)
 
テレビ又は各社のレコードメーカーで懐つ(ママ)メロにも関心を持つよ うにな り、現在の歌手に昔し(ママ)の歌を唄わせ曲も今式に編曲して売り出しているのがあ るが、ど うもピンと来 ない感がある。(中略)偶然にも私の欲いのがあった。同一人物が唄ったものだから、今は技術も進歩しているから定めし好いだろうと購入したの が何枚かあり ますが、如何せん只音が好いだけで曲は編曲され唄いかたその調子も異うのでがっかり。随分無駄金を使ってしまいました。同一人物でも、この調 子だから、他 の歌手だったら押して知るべし。(中略)このことはテレビでもいえる確かに原曲は同じだが、どうも唄い方も伴奏も昔し(マ マ)のとは一寸異う。希には似かよったのもあるが大部分はわれわれ懐つ(ママ)メ ロファン に本当の懐つ(ママ)メロ感 を味わうには何だかものたりない。(鈴木竹蔵「私しの懐メロ感 (上)」,会報 第19号,昭和47(1972)年,p.10)
  
 特に若い人達にも「なつメロブーム」が押し寄せている今日の現状です。五十代を過ぎ、停年間近な我々なつメロマニアに とりまし ては誠に喜ばしく、若者のカーステレオでなつメロを聞くにつけさながら旧友にでも巡り逢った様な親しみを感じます。然し聞いてみて歌手が戦後 生れの若輩歌 手だったらがっかりします。と云うのは今の若輩歌手になつメロを唄う資格はないからです。
 理由は現在の録音は信用できず録音技術の向上により下手糞の歌手の唄でもどんなボロでもテープの魔術によりツギハギでつくろいごまかしの機 械音化された ニセ物だからです。
 晴着姿で軍歌を唄う女性歌手の非常識さもさること乍らへんにバイブレーションをつけ、国籍不明のアクセントで然も手振り腰振り空手試合もど きゼスチャー は何としても不愉快です。
 外国ナイズされた変な編曲で奇声に等しい歌はなつメロのよさをブチこわす何物でもありません。テープ出現以前のかっての往年のベテラン歌手 の吹込はやり 直しのきかない真剣の一発勝負、実力本意の録音だったからです。
 今の機械音楽化した若手歌手吹込のなつメロのLP及びテープは我ら真のなつメロマニアには無用の長物でこそあれ何ら心の糧とはならず徒に気 分を不愉快に するのみです。
 真のなつメロとはどんなに針音があろうが声がかすれていようがSPの原盤より録音した物を聞くことこそ最高の醍醐味です。
 原盤でなければ真の演奏芸術を聞く事は不可能です。(渡辺幸治「一日四回の食事を」,会報第23号,昭和48(1973)年,p.10)

 このように、コアなファンは、若手歌手のリバイバルを嫌い、「なつメロ」を歌うのは往年のオリジナル歌手、しかもレコード発売当時のオリジナル 音源でな ければ駄目だという姿勢を取っていた。
 最後に、これらのコアな「なつメロ」ファンが、この当時第一線であった流行歌(歌謡曲)に対してどのような印象を抱いていたのかも見てみよう。

 何といっても昔し(ママ)の歌は詩、曲とも良いのが多い(中略)それ に比べ現 代のは非常にむずかしい唄いにくい、表現も歌手が身振手振しながら唄う本当に現代の歌手は大変だと思う。いわば現代の唄は容姿、表情を見なが ら聞く唄とい うのでしょうか故に何十年も残るものがない。(鈴木竹蔵「私しの懐メロ感(上)」,会報第19号,昭和47(1972)年,p.10)
  
 近ごろの歌謡曲を聞いていて感じることは、そのほとんどが「歌う」という範疇の中に入っていないことだ。それは「ささ やく」か 「どなる」かあるいは「うなる」かといったものばかりである。つまり、真の意味の「歌」ではないということだ。(中略)かって、小林千代子 が、あるステー ジで、わざわざマイクから離れて歌うのを聞いたことがあるが、いま、そういう「実力」の持主は一人としていまい。(中略)
 こういう歌とはいえない歌を毎日テレビやラジオで聞かされている故もあってか、古い歌手のオリジナル盤などを聞くと、何か救われた思いがす る。少くとも そこには、まともな「歌」がある。何よりも声そのものの質がいい。二葉あき子やミス・コロムビアの初期の歌など、文字通り「玉をころがす」よ うな美声であ る。
 ところが、いまの歌手たちはむしろ悪声、奇声が多い。「ささやく」「どなる」「うなる」では、美声などはいらないからだ。(中略)こんな 「げてもの」ば かり競っていては、しまいに歌そのものの喪失時代が来るだろう。現に、最近の歌謡曲――そして歌手もだが――の寿命の短さはどうか。(中略)
 いわゆる「なつメロ」が、大人たちばかりでなく、若い層にも人気があるというのはそこに真の「歌」があるからだろう。(能戸清司「歌謡曲げ てもの時代 ――なつメロの真の価値――」,会報第24号,昭和48(1973)年,p.1)

 ここには、当時第一線の流行歌(歌謡曲)や歌手を徹底的に嫌った上で、あくまでも昔の流行歌や歌手とは差異化し、「昔は良かった」という風に昔 の流行歌 及び歌手を権威付けする構図が見えてくる。(93)
 以上からは、コアな「なつメロ」ファン層が、往年の歌に対して、そしてそれ以上に、往年の歌手に対して、それらを権威付けしようとしていた姿勢 が見えて くる。

3−9 「なつメロ」ブームを支持した層と当時の若者
 昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームは、どのような層によって受容されていたのであろうか。当時の歌謡曲の流行周期の短 期化と ファン層の低年齢化に不満を抱いていたのは明らかに若年層ではなくて、30代以上の成年層だと考えられるし、事実「なつかしの歌声」は「40代後 半の人た ち」のための音楽番組として企画され、視聴者からの反響も大半は「三十代以上のオールドファン」であったということを考え合わせると、少なくとも 「なつメ ロ」ブームの誕生を支持したのは30代以上の成年層であったと考えていいであろう。『文研月報』昭和46(1971)年11月号にも、「視聴率か らみると “なつメロもの”は高年層によく見られており、一方、今全盛の『ベスト10もの』はポップス調の歌で大部分をしめられているため、それにあきたら ない、日 本調・演歌調の歌を好む高年層の人が、戦後25年というときの流れも手伝って、“なつメロ”に向っていると考えられる」と書かれている。〔牧田 (1971:P.27)〕
 一方、当時は一家団らんのためにお茶の間で家族と一緒にテレビを見るという行為が盛んであったために、「なつメロ」に関心のない層も、「なつメ ロ」に関 心のある家族と一緒に「なつメロ」番組を「つきあい視聴」していた可能性は十分に考えられる。しかしながら、以下の図8のように、夜の娯楽番組を 「つきあ い視聴」するのは中高年層に顕著なのであって、13〜19歳の年代はもっとも「つきあい視聴」する人の割合が低く、「つきあい視聴」が「よくあ る」と答え たのは、男子では12%、女子では15%に過ぎないという結果が出ている。以上を踏まえると、「『なつメロ』には関心のない10代/『なつメロ』 に関心を 寄せる30代以上」という、大雑把な世代間の差異は存在していたと考えられる。
図 8(「夜 8時台のつきあい視聴」,〔本田(1977:p.23)〕の図による)

 もっとも、若者の中にも、「なつメロ」に思いを寄せる者は存在していた。例えば、「なつメロ愛好会」の会員の年齢構成は以下のグラフのように なってい る。
<会員の年齢層>

会報第5号(昭和45(1970)年1月10日現在)より
会員数100人、最年少16歳、最年長60歳、平均37.6歳


会報第60号(昭和54(1979)年3月5日現在)より
会員数462人、最年少18歳、最年長88歳、平均49.2歳


会報第122号(平成元(1989)年7月20日現在)より
会員数186人、最年少26歳、最年長81歳、平均年齢56.7歳


 「なつメロ愛好会」は会員の増減が激しいが、昭和44(1969)年の発足当初から20年後に到っても、会員の年齢層はスライドしており、一貫 して 1920年代〜1940年代生まれの層がメインとなっていることが分かる。ここで注目すべきは、「なつメロ愛好会」で扱っている「なつメロ」と は、大半が 昭和戦前期の流行歌であるにもかかわらず、その頃に生まれていなかった、もしくは、物心がついていなかったと思われる1940年代(昭和 15〜24年)生 まれ以降の会員が少なくないという事実である。
 なお、昭和45(1970)年1月10日現在での会員の職業構成は以下のようになる。実際には、住宅会社、金属塗装、マッサージ師、新聞社、電 報局、作 曲家、保母…と多種多様である。職業を類型化するに当っては、国鉄に勤める者、電報局、郵便局、保健所は公務員として、保母は教員として、マッ サージ師、 左官業、植木職、会社役員などはその他にした。

会報第5号(昭和45(1970)年1月10日現在)より
会員数100人、最年少16歳、最年長60歳、平均37.6歳


 職業の分布から分かることは、まず第一に、ホワイトカラー、ブルーカラー、自営業とほぼ均等に構成されているということである。特に、ブルーカ ラーが多 い、公務員が少ない、学生が少ない、などといった目立った特徴はない。また、年齢構成で50代以上の者が少ないため、定年退職している者がほとん どいない ということが挙げられる。以上から、どういった階層が「なつメロ」の中核的なファンであったのかということを判断することは、極めて困難であると 言わざる を得ない。
 では、当時「なつメロ」に関心を寄せた若者達は、「なつメロ」をどのように捉えていたのであろうか。まず、「なつメロ愛好会」の会報に寄せられ た記事か ら内容を見ていこう。
 先ほど見たように、「なつメロ愛好会」の会員には、戦争を知らない世代も少なくないが、会報に記事を寄せているのは、見た限りでは、戦争を体験 した世代 からのものが大半で、戦争を知らない世代からのものは少ないように感じる。その中で、戦争を知らない世代からの投稿をいくつか引用しよう。

 この度、私が趣味の一環として浅い人生の中で共に生きてきた、“懐しのメロディー”題して“懐メロ”が有効に生かされ る唯一の 機関、そして同好の人々と楽しく交わる場としての“懐メロ愛好会”に入会できましたことは、誠に嬉しく、有難たく思っている次第です。(中 略)
 現在の歌謡曲と昔の歌謡曲とは歌詞、メロディーの違いも多々ありますが、基本的に異なる所は歌い手自身の気持ちであり、歌に対する思いやり ではなかろう かと思うのです。決して、現在の歌謡曲は“悪い”と一概に否定は出来ないし、私自身もその様に努めておりますが、正直の所申しまして良く思っ ていない状態 です。(中略)
 つい最近の「文芸春秋」に東海林太郎先生の「現代の歌謡曲は真の歌ではなく又、歌い手は真の歌い手でもなく、特にグループ・サウンズと称す るものの歌は 歌ではなく一つの音にすぎない。」という記事が載っておりましたが、正しくその通りだと思いました。
 “懐メロ”に関しては何時頃から興味を覚えたかと申しますと、それははっきりと自分でも判らず、限定して時期をお伝えすることは出来ませ ん。(中略)と にかく“懐メロ”を愛するという生天的素質を持って生まれたのだと思う外はありません。(中略)
 私が人前で始(ママ)めて“懐メロ”を歌ったのが高校三年の秋、クラスのコンパの時でし た。皆がその当 時の流行り歌を歌う中で私は担任の先生に頼んで一緒に伊藤久男の軍歌「暁に祈る」を歌ったことがあります。(日本大学4年平井建治「“ナツメ ロ”想うまま (上)」,会報第2号,昭和44(1969)年,p.4及び「“懐メロ”想うまま(下)」,会報第4号,昭和44(1969)年,p.3)


 数多い歌謡番組み(ママ)の中で、昔の歌が聞ける唯一の番組は東京 12チャン ネルの「なつかしの歌声」、すばらしい番組だと思います。
 私たち若い者にはあまり歌われない歌が出てくる。しかし、往年活躍された歌手の顔を見ながらヒット曲を聞くと、必ず胸にジーンとはねかえる ものを感じ る。歌は生きているのである。(中略)
 リズム歌謡全盛の現在、なつかしい歌のよさを認める若い層の支持も多いようだ。なぜならば、古いもの程価値があるとはこのことか。(森井勝 也「対称的な 『胸にジーンとくるなつメロ!』『いまの歌は線香花火!』」,会報第6号,昭和45(1970)年,p.1)
  
 東海林太郎の歌は、私のように伊那の故郷を離れて、北信濃の山村で仕事をしている者にとってほんとうに心の支えになっ てくれ る。私は戦後生まれで戦後育ちだから、東海林太郎の歌は、父、母から聞き覚えたりして、ほとんど最近知ったにすぎない。(中略)
   私の心の支えをつくってくれた東海林太郎に私は感謝している。東海林の歌はあらゆる面で人々の生活と密着し、支えとなり現在も生き続け ている。(原 俊弘「東海林太郎の歌」,会報第22号,昭和47(1972)年,p.4)

 次に、「なつメロ愛好会」への投稿ではないが、会報のとある号では、以下のように14才の中学生の発言が紹介されている。

 最近の朝日新聞の投書欄に一四才の中学生が次のような意味のことをいっていた。
 即ち先ずいしだあゆみの「今日からあなたと」をとりあげ歌詞を紹介して……こんなわけのわからない歌がヒットしている不思議さを述べ……こ の歌に限らず 最近流行している歌謡曲の多くは実にくだらない歌に思われてならない。美くしいメロディーにしっかりした歌詞の、昔の歌謡曲をくらべて今の歌 謡曲の何とく だらない事でしょう。…中略…昔の歌謡曲が社会的なものや、当時の人々の気持を表していたのに対し、今の歌謡曲の多くが、そんなものとは別の 恋とか愛とか をテーマにしたものばかりで、その歌詞も昔の叙情詩的なものと違って、ある特定の単語を並べたよう(ママ)簡 単なものがほとんどで、ひどいのになると女の名前だけの歌詩もあります。…中略
 これは一四才の中学生の心に写った偽のない現代の歌謡界の姿であると推察され、(後略)(岩本博舟「想い出の懐メロ歌手(第二回)」,会報 第8号,昭和 45(1970)年,p.4)(94)

 続いて、ラジオ関東の「この歌あの人」の番組中の「お便りコーナー」で、19歳の学生から以下のような手紙が読まれている。

 拝啓 毎週この時間を楽しみにしている19歳の学生です。私は、現在の歌謡曲よりもなつメロの方が大好きです。第一 に、今の歌 手と比べて、とても歌が上手く、又、メロディーが非常に綺麗だと思うからです。番組の構成も大変良く、あまり知られてない曲から大ヒット曲ま で幅広く取り 上げられ、ゲストとの対話も、昔の苦労話など聞かせてくださったりしてバラエティーに富み、内容豊かな番組だと思います。どうかこの番組がい つまでも続き ますよう、お願い致します。(ヤナギマサト「お便りコーナー」,『この歌あの人』昭和45(1970)年5月3日放送(関東地区),引用文は 引用者の聞き 取りによる)

 また、昭和12(1937)年に流行歌手としてデビューした一色皓一郎の自宅を、22歳の福田忠博という若者が訪ねるという記事があるが、そこ で福田は 以下のように語っている。

 福田 ぼく、四年ほど前は長崎の 佐世保に 住んでいたんですけど、“なつメロ”が好きで、中学一、二年生のころから、ラジオでなつメロ番組をききはじめたんです。それとたまたま父が、 勝太郎の「明 日はお立ちか」のSPをもっていて、その裏に、一色さんの「昭南島ぶし」が入っているのをきいてすっかりファンになってしまったんです。
 一色 すると、福田さんはわざわざ佐世保からいらっ しゃったんです か。
 福田 いや、ちがいます。佐世保では、好きな“なつメ ロ”が思うよ うにきけなくてそうしたら友達が「大阪へゆけば、なつメロ番組をいろいろなラジオで放送している」というので、大阪で就職したのです。ですか らいまは東大 阪に住んでいます。それでこの間、近畿放送の「この歌あの人」で、一色さんが出て歌っているのをきいて、たまらなくなって。
 一色 そうですか、それにしてもお若い、おいくつです か、こんな若 い人がなつメロに、それも私のようなものの歌に興味があるんですかね。
 福田 そうなんです。いまの歌をきくとアレルギー症状をおこし、ジンマシンが出るほどです。歳 は二十 二歳、昭和三十年生れです。(中略)
 一色 それにしても、福田さんのような若い方が、なぜ 昔の歌が好き なのか、私にはわかりませんね。
 福田 やっぱり、昔のうたには、日本の情緒があり、い まの歌からは 求められないものがあるからですね。(「あの人はいま…――歌声は永遠に消えず」,pp.35-36、会話中の太字は引用者による)(95)

 以上、当時「なつメロ」に関心を寄せていた若者の文章をいくつか拾ってきた。このことから分かることは、3−8及び注の(93)で見てきたよう に、「な つメロ」をリアルタイムで受容してきた年配の「なつメロ」ファン及び往年の歌手と同じように、これらの若者達も、「現代」の歌や歌手より「昔」の 歌及び往 年の歌手の方が良かったという感情を抱いているということである。特に、平井、福田、朝日新聞に投稿した14才の中学生の三者に到っては、はっき りと「現 代」の歌や歌手を嫌悪している。
 もっとも、「なつメロ」を愛好する若者の中には、「現代」の歌や歌手を嫌悪する者ばかりではなかった。現在、「昭和歌謡倶楽部」(96)の会長を務めて いるO氏は、昭和27(1952)年生まれであるが、昭和40年代(1965〜1974年)当時から「なつメロ」に関心を抱いていた。O氏の話に よると、 昭和41(1966)年当時、関西地方で昼にテレビで放送していた「アフタヌーンショー」という番組に東海林太郎が出演して歌っているのを聞いて 以来、 「なつメロ」の良さを知るようになった。当時の「なつメロ」番組としては、「なつかしの歌声」、「帰ってきた歌謡曲」、「この歌あの人」が印象に 残ってい るという。そして、昭和46(1971)年には「なつメロ愛好会」に、昭和47(1972)年には「岡晴夫を偲ぶ会」に入会している。このように 「なつメ ロ」を愛好し始めたK氏であるが、当時の若者の音楽であったグループ・サウンズも普通に聞いており、抵抗感はなかったそうだ。(97)
 このように、「なつメロ」を愛好していた若者は、リアルタイムで戦前などの流行歌に接していた中高年層と同様に、「現代」の歌や歌手に嫌気がさ して熱中 した者と、それほど「現代」の歌や歌手に嫌気がさしていたわけではない者との二者が存在していた。そして、嫌気がさしていた層の方が多数を占めて いたとい う感じを受ける。両者に共通しているのは、何らかのきっかけで「なつメロ」を知り、「現代」の歌や歌手には無い何かに惹かれて「なつメロ」を愛好 し始めた という点にある。
 以上は「なつメロ」を愛好していた若者の実態を見てきたが、それでは、若者全体の「なつメロ」に対しての反応はどのようであったのだろうか。こ れも、ま ずは当時の新聞からいくつか関連するものを引用しよう。

 (東海林太郎は)若い人の間でも、「本物の芸人」として評判がよかった。「歌謡史研究」というミニコミを出している野 沢あぐむ さん(二七)は「東海林さんの時代は、歌手の人間的側面と歌とが結びついた時代だった。今の歌謡曲は商品だから、東海林さんのような人はもう 出る余地がな い」と残念がる。
 若者に人気のあるフォーク歌手、泉谷しげるさん(二四)は「若い人で もきらいだと いう人はいないだろう。あの時代の人に共通した、何かに徹底するという芸人気質が感じられるからだ。でも、歌そのものはどうしても聞きたいというものじゃなかった。そ れがいいとい えば、それまでだが、いつも鼻歌で終ってしまい、心の歌になっていなかった」という。また、ロックバンド「頭脳警察」のトシ君(二一)は「あ あ、あの直立 不動のおじさんね。歌はただ、古くて、古くて……」。(「歌謡曲 大衆の心に生きる道――東海林太郎さんの死」,『朝日新聞』昭和47(1972)年10月5日朝刊,p.22、冒頭の括弧内・太線は引用者に よる)
  
*NHK「若いこだま」班が都内二十大学でヤングのナツメロ・アンケートをしたところ、軍歌からビートルズまで千差万別 だった が、上位には「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」などテレビ主題歌が名を連ね、テレビ文化の申し子世代を象徴。歌手は加山雄三、沢田研 二が双へき だった。その一方、父親ゆずりか東海林太郎、霧島昇などにも人気があって、古さも重要なファッションポイント。ビートルズで育ったような世代 だがコンパで 歌うのは「達者でナ」「人生劇場」「高校三年生」。(「ナツメロはTV主題歌」,『朝日新聞』昭和52(1977)年12月7日号朝 刊,p.24)

 1つ目の引用の泉谷しげるや「頭脳警察」のトシ君の反応が、「なつメロ」には特に関心を示さなかった若者の態度であろう。また、O氏の話による と、 昭和40年代(1965〜1974年)当時の若者の大多数は、「なつメロ」に抵抗感はないが積極的には応援しなかったとのことである。ここでは、 たとえ 「なつメロ」に関心を示さなかった若者にしても、東海林太郎や霧島昇といった往年の歌手の存在は知っており、特に嫌悪感は抱いていなかったという ことに注 目したい。「なつメロ」を愛好していた層に、「現代」の歌や歌手を嫌悪する者が多かったという事実とは対照的である。昭和40年代 (1965〜1974 年)の「なつメロ」ブームは、たとえ彼らが関心を持つようになろうがならなかろうが、若者達にも往年の歌手の存在を知らしめたということに意義の 一つがあ るだろう。そして、「なつメロ」に関心を抱くようになった一部の若者が、新たにブームを盛り立てていったことは間違いないであろう。

3−10 「なつメロ」という語の拡散
 「『なつかしの歌声』放送全記録」によると、昭和40(1965)年の「歌謡百年」の時期には、10月1日「あゝ活動大写真」(出演:栗島すみ 子、熊岡 天堂、竹本嘯虎:無声映画華やかなりしころの歌やフィルムをつづりながら、その時代を回顧)、10月22日「われらの青春」(出演:東京六大学応 援団、東 京混声合唱団、田浦美津路:寮歌特集)、10月29日「浅草オペラ華やか」(出演:田谷力三、藤原義江、東京混声合唱団)などのように、明治・大 正時代の 歌も特集として扱っていた。しかしながら、3年後の「なつかしの歌声」の段階になると、明治・大正時代の歌はほぼ扱われていない。これは、「帰っ てきた歌 謡曲」や「この歌あの人」などの、同時期の他の「なつメロ」番組にしても同様である。それでは、いつの時期の歌を扱っていたかというと、昭和初 期〜昭和 20年代(1945〜1954年)までの歌、それも流行歌がほとんどであった。(98)「なつかしの歌声」の番組が出した書籍である〔三枝・永来 (1970)〕・〔三枝・永来(1971)〕にしても、内容は昭和初期〜昭和30(1955)年までの流行歌史を編年体でまとめ上げたものである し、「な つメロ愛好会」で扱う「なつメロ」にしても、昭和初期〜昭和20年代(1945〜1954年)の流行歌が大半を占めている。よって、昭和40年代 (1965〜1974年)の「なつメロ」ブームにおける「なつメロ」とは、基本的には、昭和初期〜昭和20年代(1945〜1954年)の流行歌 のことで あると判断してよい。大正時代以前の歌が「なつメロ」として排除されたことには、当時の「なつメロ」中心享受層としてのターゲットが、60代や 70代の老 年層ではなく、30代〜50代の中高年層であったという事実が影響していると考えられる。(99)
 昭和30年代(1955〜1964年)という時期は、戦前にデビューした歌手が第一線を完全に退く時期に当り、昭和30年代 (1955〜1964年)以 降の歌は「なつメロ」とは認識されていなかったのだが、昭和45(1970)年を過ぎる頃から変化が訪れる。「なつかしの歌声」では、まず昭和 44 (1969)年11月11日放送の回で、初代コロムビア・ローズ、三条町子、照菊、中島孝、生田恵子、大津美子、藤島桓夫がゲストであり、昭和 25 (1950)年以降にデビューし、昭和20年代後半から昭和30年代前半(1950〜1959年)にかけて活躍した歌手の特集を初めて行なってい る。昭和 45(1970)年4月28日の放送では、佐川満男、守屋浩、花村菊江、松山恵子、藤本二三代、井上ひろし、五月みどりがゲストで、さらに2週間 後の5月 12日の放送では、村田英雄、西田佐知子、和田弘とマヒナスターズ他がゲストで、それぞれ昭和35(1960)年ごろの歌の特集を行なっている。 これ以 降、昭和30年代(1955〜1964年)を代表する歌手がたびたびゲストとして招かれ、歌を歌っている。(100)夏や大晦日の特別番組でも、昭和45 (1970)年大晦日の「なつかしの歌声・第3回年忘れ大行進」からは、昭和30年代(1955〜1964年)前半の歌まで対象を拡大している。 (101)三枝氏の話によると、こういった ことは、 「なつかしの歌声」を放送していくうちに時代が移り変わった結果だとしている。
 NHKの「思い出のメロディー」でも、年々昭和30年代(1955〜1964年)以降に活躍した歌手の出演の割合が増していっている。「思い出 のメロ ディー」には、森進一、森山良子、青江三奈、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、和田アキ子、尾崎紀世彦といった、昭和40年代(1965〜1974年) にデ ビューした歌手も出演している。もっとも、昭和46(1971)年の第3回までは、取り上げる歌は昭和30(1955)年ごろまでのものが中心 で、若手歌 手にはそれらの歌をリバイバルさせていたようである。しかしながら、昭和47(1972)年の第4回からは、昭和40年代(1965〜1974 年)以降の ヒット曲も特集するようになっている。昭和30年代や40年代(1955年〜1974年)の歌を特集することは、若者にも見てもらえるようにとの 企画の結 果であり、実際若者からの好評を得たようである。『週刊平凡』の昭和49(1974)年8月8日・8月15日合併号の特集記事では、この年の「思 い出のメ ロディー」に寄せられた視聴者からのリクエストが紹介されているが、「湯の町エレジー」(昭和23(1948)年)や「支那の夜」(昭和 15(1940) 年)、「国境の町」(昭和9(1934)年)と並んで、森進一の「おふくろさん」(昭和46(1971)年)がリクエストされた様子が記載されて いる。

 涙ながらにうたう悲しい思い出。熊本市内で飲食 店を経営 するAさん(39歳)は、森進一の『おふ くろさん』 の中に、自分の母 の面影を探ってしまうという。
《母が死んだのは、私が7歳のときです。小学五年のころ、近くの夜店のダンゴ屋さんに、母とそっくりのおばさんがいました。私は毎晩のよう に、そのダンゴ 屋に出かけました。母が恋しかったのです。
 昨年の『紅白』で、森進一さんが『おふくろさん』をうたったとき、私はこらえ切れずに涙を流してしまったものです。子供たちが心配して、しまいにわけを聞きます。しかし、この『お ふくろさん』を 聞くときの悲しさだけは、だれに話してもわかってはもらえないでしょう。》(中略)
 さて、こんどNHKにリクエストされた曲数は、ざっと1500曲あっ た。78 万3210通のハガキの3分の2が、女性からのものだ。
 NHKでは、その中の上位100曲を選んだ。それからまた、50曲にふるいをかけたものが、ことしの『思い出のメロディー』でうたわれる曲 目ということ になった。
 その上位5曲をあげれば、@『おふくろさん』、A『悲しき口笛』、B 『高校三年 生』、C『影を慕いて』、D『人生の並木路』ということになるらしい。(中略)
 今回、曲目を選んだ主役は視聴者になる。しかも見渡したところ、ことしの選曲にはきわだった特色がある。
“思い出のメロディー”というには、いささか新しすぎる曲が多いのであ る。
 たとえば、リクエストの1位にランクされた『おふくろさん』が、 そ れであろう。昨年の『紅白』に登場したことでもわかるとおり、この曲は46年に発表されている。
 わずか3年弱しかたっていない。
 このほか、46年に発表されたものとして『また逢う日まで』(尾 崎 紀世彦)と『わたしの城下町』(小柳ルミ子)もあ る。
 あるいはこのあたりが、“懐かしのメロディー”と“思い出のメロディー”の違いかもしれない。
 「ともかくNHKとしては、コンピューターまで動員して、今後“スタンダード”として残るような曲を選んだつもりです。やはり圧倒的に多かったリクエストは、演歌でしたね
 末盛憲彦チーフ・ディレクターはこういう。この末盛さんの話によると、視聴者から寄せられたリクエストのほとんどが、歌手の指名までしてき ているらし い。(「生まれる前の歌を揃ってうたう野口五郎・西条秀樹のとまどいとある不安――NHK『思い出のメロディー』の放送されない、影の内 幕」,『週刊平 凡』昭和49(1974)年8月8日・8月15日合併号,pp.57-60、太字は本文に沿っている)

 引用文中の「おふくろさん」は昭和46(1971)年の、「悲しき口笛」は昭和24(1949)年の、「高校三年生」は昭和38(1963)年 の、「影 を慕いて」は昭和7年の、「人生の並木路」は昭和12(1937)年の曲であり、年代がバラバラである様子が伝わってくる。「なつメロブーム」初 期におい ては、「『なつメロ』とは昭和20年代(1945〜1954年)までの流行歌のことである」という暗黙の了解が存在していたと言えるが、昭和40 年代 (1965〜1974年)の後半に入ると、このように「なつメロ」の時代範囲が次第に曖昧になってきたということが分かるであろう。(102)
 「なつメロ」番組上においてだけでなく、週刊誌の記事を追っていても、この頃から「なつメロ」として昭和30年代(1955〜1964年)以降 の歌や歌 手が取り上げられるようになってくる。『週刊TVガイド』では、昭和45(1970)年8月7日号と翌年の46(1971)年8月13日号が「な つメロ」 特集となっているが、前者が昭和20年代(1945〜1954年)までに活躍した歌手のみを扱っているのに対して、後者ではそれらに加えて、浜村 美智子、 渡辺マリ、平尾昌晃といった、昭和30年代(1955〜1964年)に活躍した歌手も「なつメロ」歌手として取り上げている。
 また、この時期は、「なつメロ」が若者のものになっていく時期でもあった。それ以前の「なつメロ」は、若者にとっては自分が生まれる前のもので あり、そ こに新鮮さを見出していくものに過ぎなかったのだが、この時期に到ると、若者が自分の過去を振り返って懐かしいと思う歌全てが「なつメロ」として 見出され ていくようになっていった。例えば、『女性セブン』昭和47(1972)年8月9日号では、20歳の志垣太郎が「サウンド・オブ・サイレンス」 を、24歳 の中山千夏は、自らが歌った「あなたの心に」という歌をそれぞれ自らの「懐かしのメロディー」として語っている。(103)同じく『女性セブン』昭和53 (1978)年5月11日号では、「ヤングにはヤングの“ナツメロ”があるのです。ラジオやテレビの人気番組の主題歌、青春歌謡、ポップス… あ なたはど んな曲を覚えていますか?当時を思い出しながら口ずさんでください…。」との書き出しの下に、昭和30年代後半から昭和40年代 (1960〜1974年) にかけての青春歌謡、和製ポップス、テレビまんがの主題歌が「なつメロ」として取り上げられている。(104)また、『週刊読売』昭和 50(1975)年 10月18日号でも、「20代の諸君!オレたちにもすでに回想(なつめろ)があるのだ!」という特別企画の元、昭和30年代(1955〜1964 年)の歌 謡曲とテレビ主題歌が取り上げられている。(105)
 この時期に、昭和戦前期や昭和20年代(1945〜1954年)の流行歌が「なつメロ」でなくなったわけでは決してないが、「なつメロ」という 語が表す 対象の範囲が拡散した結果、《「なつメロ」である/ない》のバイナリー・コードが氾濫していく過程を見ていくことが出来るであろう。(106)


トップへ
第3章(前半)へ
終章へ