終章


 Davis(1979=1990)は現代社会のノスタルジア現象について、「マスメディアによって大幅に宣伝されるだけでなく、集合的ノスタル ジアの対 象そのものがもともと、ほど遠からぬ過去にメディアによって創造されたもの」であるということを述べている。〔Davis(1979=1990: p.175)〕そしてそうである以上、現代のノスタルジアは「特異で私的で個性的なニュアンスのいくぶんかを剥奪」され、「ノスタルジアの記憶の 集合的な 財源の同質性がある程度まで高められることを運命づけ」られている。〔Davis(1979=1990:p.184)〕
 この指摘は、まさに昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームにも当てはまっている。この時期の「なつメロ」ブームでノスタル ジアの対 象となったのは、昭和初期以降の流行歌及び歌手であった。大正時代以前においての流行歌は、巷で人々の間に歌い継がれることによって流行り出すと いう性質 を持っており、レコードに吹き込まれるのも、既に巷で流行っていたものが対象であった。故に、「カチューシャの唄」や中山晋平節のように全国的に 流行った ものもあるものの、むしろそれらは例外で、1つの歌が全国レベルで流行するということは少なかった。
 この状況が昭和に入ってから一変する。外国資本化したレコード会社が自ら流行歌を企画して、意図的に“流行歌”を流行させるようになったのであ る。その “流行歌”は、レコード会社専属の決まった歌い手がレコードに吹き込むようになった。ここに到って、流行歌は「メディアによって創造され」るもの となり、 これらは全国レベルで流行するようになった。こうした流行歌及び歌手をノスタルジアの対象とした昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメ ロ」ブー ムは、北海道の人にとっても沖縄の人にとっても、「ノスタルジアの記憶の集合的な財源」は同質的なものであったし、ブーム自体が、テレビなどのマ スメディ アによって喚起・促進されたものであった。
 昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームの特徴としては、第一に、歌以上に往年の歌手にスポットを当てたものであり、往年の 歌手の再 評価・権威づけがその過程で行われていった。これは、昭和20年代〜30年代(1945〜1964年)の「なつメロ」が、歌だけを取り出してきた という点 とは対照的であった。第二に、これは昭和20年代〜30年代(1945〜1964年)の「なつメロ」にも共通していることであるが、これらがノス タルジア の対象となると同時に、レトロの対象でもあったということである。芹沢(1987→1990)は、ノスタルジアとレトロは共に過去志向という点で は同じで あるが、ノスタルジアの対象が意識化された体験的な生の時間であるのに対して、レトロの対象は、無意識的な幼児期や生まれる以前の非体験的な過去 であると する考え方があることを紹介している。これを参考にすると、「なつメロ」は、戦争を体験した世代からはノスタルジアとして受け入れられ、戦争を体 験してい ない世代からはレトロとして受け入れられたということが言える。そして、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつメロ」ブームの後半期にお いては、 《「なつメロ」である/ない》のバイナリー・コードが氾濫していき、若者にとっても、新たにノスタルジアとしての「なつメロ」が創出されていっ た。
 今後の課題としては、まず時代背景を元としたメディア分析を行うことである。NHKが戦後以来刊行している『放送文化』、『文研月報』、 『NHK放送文 化研究所年報』には、テレビやラジオを中心とした、それぞれの同時代から見たメディア分析を行った記事が多彩であり、社会学的な観点からも豊富な 示唆が得 られるものと見られる。今回この論文では、それらの記事をほとんど活用できなかったのが残念である。
 また、「なつメロ」と「演歌」の関連性を追究することもテーマとしたい。「演歌」という言葉の語源は、明治時代の壮士演歌にまでさかのぼるが、 現在よく 使われる意味である、歌謡曲のうちヨナ抜き音階や小節を用いたものとしての「演歌」という語が用いられるようになったのは、「なつメロ」という語 と同じ、 昭和40(1965)年前後のことである。(107)以 下、簡単に現時点で考えていることを述べたい。
 論者は、「なつメロ」と「演歌」には深いつながりがあると考えている。第一に、「なつメロ」にしても「演歌」にしても、「日本人の心のふるさ と」という 捉えられ方がされている。(108)第 二 に、どちら も中高年層をターゲットにしている。(109)第 三 に、「なつメロ」と「演歌」を混合する言説が生じて くる。
 第三の点に関しては、例えば以下の記事が印象的である。

演歌は、おとこ涙の酒場の歌

北島 やっぱり演歌というと、古賀政男先生の『人生の並 木路』 『男の純情』『影を慕いて』を、ボクは筆頭にあげたいネ。どんな若い人でも、この演歌の名曲は知ってるし、歌えるんじゃないかな。(中略)
古賀 ハッハッハ。まあ、歌は素直に自分の心を表現すれ ばリッパ なものだ。それだけでいいんだ。(中略)
 自分で作曲したなかで、どれかひとつを選べといわれたら、そうですネ……。『人生劇場』かな。
星野 新宿の飲み屋に行って酔っぱらうと、私もどなるん ですよ。 『ゴンドラの歌』から始めて、『旅の夜風』『旅姿三人男』(中略)

演歌・艶歌・怨歌・縁歌・猿歌……
古賀 ぼくにとって演歌は、ぼくの生活の御詠歌なの。な んともあ りがたいこの世の歌です。
 歌は世につれというけれど、私がこしらえているのは、もとをただせば、明治期の書生さんが歌った書生節ですよ。さらにそのもとをただせば、 清元か長唄、 あるいは義太夫か浪花節かもしれない。
(「作曲家古賀政男 作詞家星野哲郎 歌手北島三郎が選んだ名曲集! 男なら歌え!このやくざ演歌(うた)」,『プレイボーイ』昭和50(1975)年7月15日号)

 この記事においては、戦前のものも戦後のものも区別せずに「演歌」とひとくくりにして扱われている。歌謡曲のうちヨナ抜き音階や小節を用いたも のとして の「演歌」という語が用いられるようになったのが昭和40(1965)年前後からであるということを考えると、奇異に感じられなくもない。ここに おいて は、「演歌」の語源である明治時代の壮士演歌や大正時代の書生節、さらに、昭和初期にヨナ抜き音階を歌謡曲の世界に定着させたことで知られる「古 賀メロ ディー」が、「演歌」の元祖として扱われていったと言える。「なつメロ」と「演歌」が混合されていったことは、「なつかしの歌声」や「帰ってきた 歌謡曲」 といった「なつメロ」番組の後発に当たる番組が、「演歌」番組に変容していったということからも伺える。(110)
 とは言え、高木東六や淡谷のり子の他、「なつメロ愛好会」の会員の中には、「なつメロ」が嫌いではなくとも、「演歌」を毛嫌いする人々が存在す る点も興 味深い。(111)これは、牧田 (1978)・高木 (1967)・小泉(1984)を参考にすると、「演歌」が歌詞・音階・歌唱法において、浪曲や邦楽の 影響を受けていることに由来すると思われる。1−1で見たように、浪曲や邦楽を支持していたのは、昭和40年代(1965〜1974年)の「なつ メロ」 ブームを享受した中高年層よりも上の世代である。一方、「演歌」を毛嫌いする層は、昭和初期以降の、西洋音楽の訓練を積んだ歌手の歌唱を支持する 層でもあ る。これらの人々は、古賀政男作曲の「人生劇場」を例に取ると、浪曲出身の村田英雄が戦後歌ったものよりも、音楽学校出身の楠木繁夫が戦前に歌っ た歌唱を 好むのである。(112)ここに は、「日本 古来の旋 律を支持する大正時代以前の層」→「西洋音楽の旋律を支持する昭和初期〜昭和20年代 (1945〜1954年)の層」→「『演歌』という形で再び日本古来の旋律を支持する昭和30年代(1955〜1964年)以降の層」という構図 が見えて くる。


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